人の心に灯をともす 4088 本物のおとな論

【本物のおとな論】4088



外山滋比古(とやましげひこ)氏の心に響く言葉より…


日本語全体としてみると、ヨーロッパ語に比べて、いちじるしく明晰(めいせき)さに欠けて、アイマイである。

明治以来、日本人は、それを論理性の欠如のように考えて、ひそかに恥じてきた。

日本語は論理的でない、したがって、劣っていると、本気に考えた知識人はすくなくなかったはずで、後発文化のせいである。


ありのままではなく、あえて、美しい、おもしろいことばで表現するのは、洗練された文化にしかおこらない。

頼まれたことをはっきり「ダメです」というのは、正直かもしれないが、バカ正直である。

いくらかでも社会性を身につけていれば、そこはボカして「考えておきましょう」とするのは、ひとつの知恵である。


アイマイであるのは、百も承知である。

むしろ、そういうアイマイさこそのぞましいと考える。

ヨーロッパでは、ギリシャの昔から、アイマイを悪魔の模様として嫌った。

それが二千年もつづいた。


二十世紀に入って、イギリス人のウイリアム・エンプソンが、「曖昧の七型」という本を出すまで、西欧でアイマイが認められたことはなかった。

日本では中世に、アイマイの美学が存在したことを、日本ははっきり評価することがなかった。

エンプソンのアイマイの論に喜びはしたものの、なお、論理性に欠けるとして日本語を恥じる風潮は消えてはいない。


ハダカで平気なのは、むかしの田舎のこどもであった。

ものごころがつけば、着物が気になる。

大人になれば、ときに分不相応の衣装を身にまとう。


ことばにおいても、それに似たことがおこっている。

幼いものは、ハダカのことばを使って平気である。

しかし、すこしものごごろがつくと、ことばを選ぶようになる。

大人になれば、さらに洗練されたことばのおしゃれをする。

このことばの洗練という点において、日本は断然、先進国である。

変な劣等感はすてなくてはならない。


アイマイは平和なことばである。

論理は攻撃的である。

洗練された言葉は必然的に婉曲(えんきょく)で多義的になる。


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外山氏は「やさしい気持ちがアイマイを生む」という。

『日本人は明治以降、欧米文化の模倣をありがたがり、伝統的な文化を見捨て顧(かえり)みることがなく、それを進歩と錯覚(さっかく)した。

戦後、日本語が大きく変わった。

それが改良だと考えている人がすくなくないが、幼稚である。

こどもはひとのことに構わない。

天真爛漫(てんしんらんまん)である。

いくらか苦労し、経験をつむと、自分勝手では見苦しいと思うようになる。

ことばの使い方も、相手の思惑を考えるようになる。

想像力がはたらく、思いやりの心がうごくことになる。

わざとわかりにくい、不明瞭(ふめいりょう)なことばを使うのは、相手へのやさしい気持であるからで決して、ことばがおくれているわけではない。

アイマイの美学は一日では生まれない。

洗練という伝統の中でみがかれてはじめて輝くようになる。』


外山氏は、日本人の「包む」文化が言葉の洗練さにも表れているという。

たとえば日本においては、香典や病院のお見舞い、あるいは結婚式のお祝いにむき出しでお金を持っていく人はいない。

あるいは何かを習ったときの月謝なども、ムキ出しで出す人はいない。


言葉もこれと同じで、ムキ出しではなく、優しい気持ちを包むからアイマイになるのだという。

それは、むやみに人と、争わない、ケンカをしないという大人の作法でもある。


人生を豊かにするため…

おとなの作法を身につけたい。






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