人の心に灯をともす 6021 もっと寛容な社会へ

【もっと寛容な社会へ】6021


ひろさちや氏の心に響く言葉より…



宗教とは何か?

いつもそのことを考えています。

世界にはいろいろな宗教があります。

そのさまざまな宗教に共通する特色は何でしょうか?


その宗教の共通点をうまく捉えることができれば、宗教の定義ができるわけです。

だが、多くの宗教学者が宗教の定義を試みていますが、みんなが納得する定義はできていません。

それゆえ、現在のところ、宗教学者の数だけの定義があると言われています。


ところで、わたしは最近、ふとこんなふうに考えました。

世界にはさまざまな宗教がありますが、そのうちのほとんどの宗教が教えているのは、・・・人間というものは、弱くて、愚かで、不完全な存在である・・・ということではないでしょうか。

つまり、人間は絶対的な存在ではないのです。


「絶対」といえるのは仏や神だけです。

だが、ご存じのように現代日本人は総じて「無宗教」です。

ほとんどの人が、「わたしは宗教を信じていません」と発言します。


ということは、裏を返せば、人間が弱くて、無力で、愚かで、不完全な存在であると思っていないことになります。

むしろその逆に、人間は賢く、完全な存在でなければならないと思っているのです。

無宗教ということは、そういう信念を持っていることになります。

だから、世の中全体が不寛容な社会になったのです。


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マルクス主義の思想の中で有名な言葉に「宗教は民衆のアヘンである」というものがある。

これは、宗教が人々に「来世の救い」を約束することで、現実の苦しみを我慢させ、支配階級の都合に利用されてきた、という批判からきている。

共産主義は「人間は自分の力で社会を変えられる」という前提だ。

だから、「神に祈る」のではなく「人間の力で不平等をなくす」と、考えた。

そのため、宗教は「人間の主体性を奪うもの」とみなされ、排除の対象となった。


ところが、ソ連や中国など共産主義体制を取った国でも、宗教を完全に消し去ることはできなかった。

人間にとって「目に見えないものに祈る」「人知を超えた存在を意識する」という気持ちは、根源的なものだからだ。


ひろさちや氏のいう通り、宗教を認めないという「無宗教」の姿勢は、「人間は完全な存在である」という思い込みにつながる。

人間の弱さや愚かさを受け入れず、制度や思想で完璧な社会を作れると信じてしまう。


それとは逆に、日本人は「無宗教」といいながら、実際には多様な宗教に手を合わせる。

結婚式はチャペルで行い、葬式はお寺で、初詣や七五三や祭りは神社で、というようにそれらの儀礼や祭祀(さいし)を自然に取り入れている。

だから、実際にはとても寛容で、信心深い民族なのだとも言える。


「もっと寛容な社会へ」という言葉を胸に刻みたい。




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