人の心に灯をともす 5291 気配りのすすめ
【気配りのすすめ】5291
ホイチョイ・プロダクションズの心に響く言葉より…
まずは、みなさんよくご存じの木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)若き日のエピソードから。
ある冬の寒い晩、尾張の国主・織田信長が外出しようとしてゾウリに足を入れると、肌触りが妙に温かい。
「さては、従者が尻がこごえるのを防ぐために下に敷いていたな」と思い、控えていた部下の藤吉郎を呼びつけて叱ると、藤吉郎は「尻に敷いてなどおりません。おみ足が冷たかろうと、懐で温めておりました」と必死で弁明する。
信長が「ウソをつくな!」と襟元を掴むと、胸にくっきりゾウリのハナ緒の跡。
信長は、その気くばりに感心し、これが藤吉郎の出世のキッカケになったという。
秀吉だけではない、彼の部下、石田三成にも同様のエピソードがある。
長浜城主時代の秀吉が、鷹狩りの帰りにノドの渇きを覚え、通りがかりの寺に寄って飲み物を求めたときのこと。
応対に出た少年(後の石田三成)は、まず初めに、大きな茶碗にぬるい茶をなみなみと注いで出してきた。
茶碗の茶を一気に飲み干した秀吉がおかわりを注文すると、少年は、最初のよりやや小さめの碗にやや熱めの茶を淹れて出してきた。
その違いに興味を持った秀吉が、試しにもう一杯注文すると、少年はさらに小さな碗に熱々の茶を淹れて出した。
相手のノドの渇きに応じて茶の温度と量を変える、その気くばりに感心した秀吉は、少年を城に連れて帰り、家来としたという。
二つの事例は、どちらも、目上の者に対するわかりやすいおべっかである。
現代の若者は、「おべっかなんて、能力のないダメ人間にしか通用しないまやかしの技術だ」という誤った認識を持っているが、では、信長や秀吉は、ダメ人間だったか?
とんでもない、日本史上、最も能力の高い2人だ。
その2人が、ベタベタなおべっか使いに目をかけ、登用したという歴史的事実に、われわれはもっと注目していい。
いつの時代も、信長や秀吉のような能力の高い人間には、大きな仕事が集中する。
彼らにはやるべきことがたくさんある。
だから常に忙しい。
忙しいゆえ、すぐに自分の助けとなる即効性のあるサービスを常に必要としている。
だから有能な人間は、「即効性のあるサービス」、つまり「露骨なおべっか」に弱い。
有能であればあるほど、弱い。
弱いというより、その価値を知っている。
信長や秀吉には、「私は、主君を思う心では他の誰にも負けない」などという曖味な 「キモチ」は通用しない。
そんな「キモチ」を汲んでいるほど、彼らはヒマではない。
「あの人は優秀だから、きっと他の人が気づかない自分のよさに気づいてくれるだろう」などと期待するのは、仕事のできない部下の甘い幻想である。
優秀な上司は、目の前に山積した大仕事に意識を集中させている。
小事を見る余裕などない。
そんな人間には、彼自身の助けとなる、即効性のあるサービスしか伝わらない。
優秀な上司は、そうしたリアルなサービスを瞬時に行ってくれる人間しか評価しないし、優秀な部下はそのことを知っている。
優秀な部下は、やがて優秀な上司となり、優秀な部下を見つけて、重用する。
信長のゾウリを温めて偉くなった秀吉が、温度の違う茶を3回出した三成を重用したのは、そういうことだ。
こうした、能力の高い人のハートに刺さる、わかりやすいリアルなサービスを、仮りに「戦略おべっか」と呼ぶことにしよう。
「おべっか」という言葉が嫌なら 「気くばり」と言い換えてもいい。
「戦略気くばり」ができる人とできない人とでは、出世や収入が違う。
それは何も戦国の世に限った話ではない。
近代文明は、人間を、頭を使わない単調な労働から解放したが、その一方で、より高度な判断力を必要とする複雑な頭脳労働が一部の優秀な人間に集中し、彼らにインプットされるべき情報量が飛躍的に増大する、という偏りを生み出した。
現代の有能なビジネスマンは、戦国武将以上に多忙である。
だからこそ、彼らの無言の欲求を汲んで、すばやく対応し、彼らの負担を軽減してやる気くばりは、戦国時代以上に必要とされているのだ。
《忙しい有能な人間ほど、 露骨なおべっかが好き》
『戦略おべっか』講談社
https://amzn.to/3JUsWqn
《気配りは人間関係を円滑になごやかにするばかりでなく、事業を成功に導く上でも大いに役立っている。》(サミュエル・スマイルズ/作家)
人間関係の基本は気配りと思いやりだ。
孔子はそれを「恕(じょ)」と言っている。
『子貢(しこう)は聞いた。
「先生、たった一語で、一生それを守っておれば間違いのない人生が送れる、そういう言葉がありますか」
孔子は、「それは、恕(じょ)かな(其恕可)」と答える。
自分がされたくないことは人にはしてはならない、それが恕だ、と孔子は説いた。
つまりは思いやりということである。
他を受け容れ、認め、許し、その気持を思いやる。
自分のことと同じように人のことを考える。
そのことこそ、人生で一番大切なことだと孔子は教えたのである。』(小さな人生論 2/致知出版)
「おべっか」というと、お世辞をいったり、ゴマをすったりして、相手に取り入ろうとする嫌な印象がある。
しかし、相手を思いやる、気配りをすると言い換えてみれば、それは必要なことだとわかる。
それが、人間関係の基本でもある。
また、こういう言葉もある。
《他人を感動させるには、人と違った気配りを見せることです。》( ジョセフ・マーフィー )
感動という人の心を動かすシーンにおいても、気配りは必要だということだ。
どんなに時代が変わろうと…
気配りは必要だ。
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ホイチョイ・プロダクションズの心に響く言葉より…
まずは、みなさんよくご存じの木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)若き日のエピソードから。
ある冬の寒い晩、尾張の国主・織田信長が外出しようとしてゾウリに足を入れると、肌触りが妙に温かい。
「さては、従者が尻がこごえるのを防ぐために下に敷いていたな」と思い、控えていた部下の藤吉郎を呼びつけて叱ると、藤吉郎は「尻に敷いてなどおりません。おみ足が冷たかろうと、懐で温めておりました」と必死で弁明する。
信長が「ウソをつくな!」と襟元を掴むと、胸にくっきりゾウリのハナ緒の跡。
信長は、その気くばりに感心し、これが藤吉郎の出世のキッカケになったという。
秀吉だけではない、彼の部下、石田三成にも同様のエピソードがある。
長浜城主時代の秀吉が、鷹狩りの帰りにノドの渇きを覚え、通りがかりの寺に寄って飲み物を求めたときのこと。
応対に出た少年(後の石田三成)は、まず初めに、大きな茶碗にぬるい茶をなみなみと注いで出してきた。
茶碗の茶を一気に飲み干した秀吉がおかわりを注文すると、少年は、最初のよりやや小さめの碗にやや熱めの茶を淹れて出してきた。
その違いに興味を持った秀吉が、試しにもう一杯注文すると、少年はさらに小さな碗に熱々の茶を淹れて出した。
相手のノドの渇きに応じて茶の温度と量を変える、その気くばりに感心した秀吉は、少年を城に連れて帰り、家来としたという。
二つの事例は、どちらも、目上の者に対するわかりやすいおべっかである。
現代の若者は、「おべっかなんて、能力のないダメ人間にしか通用しないまやかしの技術だ」という誤った認識を持っているが、では、信長や秀吉は、ダメ人間だったか?
とんでもない、日本史上、最も能力の高い2人だ。
その2人が、ベタベタなおべっか使いに目をかけ、登用したという歴史的事実に、われわれはもっと注目していい。
いつの時代も、信長や秀吉のような能力の高い人間には、大きな仕事が集中する。
彼らにはやるべきことがたくさんある。
だから常に忙しい。
忙しいゆえ、すぐに自分の助けとなる即効性のあるサービスを常に必要としている。
だから有能な人間は、「即効性のあるサービス」、つまり「露骨なおべっか」に弱い。
有能であればあるほど、弱い。
弱いというより、その価値を知っている。
信長や秀吉には、「私は、主君を思う心では他の誰にも負けない」などという曖味な 「キモチ」は通用しない。
そんな「キモチ」を汲んでいるほど、彼らはヒマではない。
「あの人は優秀だから、きっと他の人が気づかない自分のよさに気づいてくれるだろう」などと期待するのは、仕事のできない部下の甘い幻想である。
優秀な上司は、目の前に山積した大仕事に意識を集中させている。
小事を見る余裕などない。
そんな人間には、彼自身の助けとなる、即効性のあるサービスしか伝わらない。
優秀な上司は、そうしたリアルなサービスを瞬時に行ってくれる人間しか評価しないし、優秀な部下はそのことを知っている。
優秀な部下は、やがて優秀な上司となり、優秀な部下を見つけて、重用する。
信長のゾウリを温めて偉くなった秀吉が、温度の違う茶を3回出した三成を重用したのは、そういうことだ。
こうした、能力の高い人のハートに刺さる、わかりやすいリアルなサービスを、仮りに「戦略おべっか」と呼ぶことにしよう。
「おべっか」という言葉が嫌なら 「気くばり」と言い換えてもいい。
「戦略気くばり」ができる人とできない人とでは、出世や収入が違う。
それは何も戦国の世に限った話ではない。
近代文明は、人間を、頭を使わない単調な労働から解放したが、その一方で、より高度な判断力を必要とする複雑な頭脳労働が一部の優秀な人間に集中し、彼らにインプットされるべき情報量が飛躍的に増大する、という偏りを生み出した。
現代の有能なビジネスマンは、戦国武将以上に多忙である。
だからこそ、彼らの無言の欲求を汲んで、すばやく対応し、彼らの負担を軽減してやる気くばりは、戦国時代以上に必要とされているのだ。
《忙しい有能な人間ほど、 露骨なおべっかが好き》
『戦略おべっか』講談社
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《気配りは人間関係を円滑になごやかにするばかりでなく、事業を成功に導く上でも大いに役立っている。》(サミュエル・スマイルズ/作家)
人間関係の基本は気配りと思いやりだ。
孔子はそれを「恕(じょ)」と言っている。
『子貢(しこう)は聞いた。
「先生、たった一語で、一生それを守っておれば間違いのない人生が送れる、そういう言葉がありますか」
孔子は、「それは、恕(じょ)かな(其恕可)」と答える。
自分がされたくないことは人にはしてはならない、それが恕だ、と孔子は説いた。
つまりは思いやりということである。
他を受け容れ、認め、許し、その気持を思いやる。
自分のことと同じように人のことを考える。
そのことこそ、人生で一番大切なことだと孔子は教えたのである。』(小さな人生論 2/致知出版)
「おべっか」というと、お世辞をいったり、ゴマをすったりして、相手に取り入ろうとする嫌な印象がある。
しかし、相手を思いやる、気配りをすると言い換えてみれば、それは必要なことだとわかる。
それが、人間関係の基本でもある。
また、こういう言葉もある。
《他人を感動させるには、人と違った気配りを見せることです。》( ジョセフ・マーフィー )
感動という人の心を動かすシーンにおいても、気配りは必要だということだ。
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