人の心に灯をともす 5545 小さな幸せを見つけること
【小さな幸せを見つけること】5545
渡部昇一氏の心に響く言葉より…
《“小さな恍惚”をいたるところで見出すことができる人は、幸せである》
天皇陛下が子どものころの英語の教師だったヴァイニング夫人は、少女のころ、夕暮れの空を飛んでいく鷺か何かの鳥を見たときに、一瞬、その美しさに我を忘れるような体験をしたと書いている。
そのとき以来、夫人は小さなことにうっとりとする体験を大切にするよう努めたという。
人生において、大きな喜びで夢中になれるようなことはあまり多くはないかもしれない。
しかし、小さな恍惚を感じる目を持っていれば、人生はもっと充実感に満ちたものになるはずだというのだ。
松尾芭蕉の句に、「山路来て 何やらゆかし すみれ草」というのがある。
すみれ草は、普段は目にもとめない草だが、それについ見とれてしまう。
このときの芭蕉も、ヴァイニング夫人と同じく、小さな恍惚の状態にあったと言えよう。
こういう「小恍惚」とも言うべきことが起こるときこそ、本当に、自己が伸びているときである。
小恍惚を人生のいたるところで見出すことができる人は、幸いな人であり、生きがいのある人生を送っていると言える。
ヴァイニング夫人の鷺や芭蕉のすみれ草のように、ある情景に目を奪われるといったことに限らない。
数学の問題が解けたときの言いようのない満足感、時間を忘れて小説に引き込まれているときの充実感、素晴らしい音楽に聞きほれているときの心地よさ。
すべてが小さな恍惚だ。
ここで言っておかねばならないのは、このときの心の状態が受け身であるということだ。
これは、けっして自分の努力によって獲得したという、能動的、もしくは挑戦的な姿勢から得られるものではない。
なぜ、こんな話をしているかというと、「努力は大事」という思考にはまりこんで、 努力至上主義に陥る人が多いからである。
たしかに努力は大事だ。
しかし、断じて努力=価値ではない。
ここを見誤って、努力しないで得たものには価値がないという迷信に染まってしまうと、小恍惚を得ることも、小恍惚を見出すことで成長することもできなくなってしまう。
たしかに、求めるものに向かって一心に努力することは美しい。
ハンディキャップを厭(いと)わず、失敗を恐れず、とにかくやってみるべきだということは、これまでにも述べたとおりである。
ただ、「努力、努力」と思いつめるあまり、努力すること自体が一番の価値だと錯覚してしまっては元も子もない。
それは、ある種の傲慢(ごうまん)である。
だから、ときには、受け身の姿勢になって、小さな恍惚を「授けられる」という心境に浸ってみてもいいのではないか。
今日、自分があることのありがたみがわかるはずである。
『人生の手引き書』扶桑社新書
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メーテルリンクの書いた「青い鳥」という童話がある。
チルチルとミチルという兄妹が、幸せの青い鳥を探しにいく話だ。
遠くまで探しに行くが、見つけたのは、結局は自分の家の中だった、という何とも幸せの本質をつく話だ。
「幸せ」はどこか遠くにあるものではなく、自分のまわりで見つけるものであり、感じるものである、ということ。
努力して、必死になって探しにいくものでもない。
「幸せ」は他の人から指摘されることでもなく、「幸せ」という現象があるわけでもない。
ただひとえに自分で「感じるもの」だからだ。
「人間の最大の悪は何か。それは鈍感である」(野村克也)
必死の努力をしてお金を稼ぎ、地位を築いたとしても、感じ方が鈍かったら、幸せを感じることはできない。
永遠に幸せを感じることはできない。
日々の日常の中に…
小さな幸せを見つけることができる感性を磨きたい。
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渡部昇一氏の心に響く言葉より…
《“小さな恍惚”をいたるところで見出すことができる人は、幸せである》
天皇陛下が子どものころの英語の教師だったヴァイニング夫人は、少女のころ、夕暮れの空を飛んでいく鷺か何かの鳥を見たときに、一瞬、その美しさに我を忘れるような体験をしたと書いている。
そのとき以来、夫人は小さなことにうっとりとする体験を大切にするよう努めたという。
人生において、大きな喜びで夢中になれるようなことはあまり多くはないかもしれない。
しかし、小さな恍惚を感じる目を持っていれば、人生はもっと充実感に満ちたものになるはずだというのだ。
松尾芭蕉の句に、「山路来て 何やらゆかし すみれ草」というのがある。
すみれ草は、普段は目にもとめない草だが、それについ見とれてしまう。
このときの芭蕉も、ヴァイニング夫人と同じく、小さな恍惚の状態にあったと言えよう。
こういう「小恍惚」とも言うべきことが起こるときこそ、本当に、自己が伸びているときである。
小恍惚を人生のいたるところで見出すことができる人は、幸いな人であり、生きがいのある人生を送っていると言える。
ヴァイニング夫人の鷺や芭蕉のすみれ草のように、ある情景に目を奪われるといったことに限らない。
数学の問題が解けたときの言いようのない満足感、時間を忘れて小説に引き込まれているときの充実感、素晴らしい音楽に聞きほれているときの心地よさ。
すべてが小さな恍惚だ。
ここで言っておかねばならないのは、このときの心の状態が受け身であるということだ。
これは、けっして自分の努力によって獲得したという、能動的、もしくは挑戦的な姿勢から得られるものではない。
なぜ、こんな話をしているかというと、「努力は大事」という思考にはまりこんで、 努力至上主義に陥る人が多いからである。
たしかに努力は大事だ。
しかし、断じて努力=価値ではない。
ここを見誤って、努力しないで得たものには価値がないという迷信に染まってしまうと、小恍惚を得ることも、小恍惚を見出すことで成長することもできなくなってしまう。
たしかに、求めるものに向かって一心に努力することは美しい。
ハンディキャップを厭(いと)わず、失敗を恐れず、とにかくやってみるべきだということは、これまでにも述べたとおりである。
ただ、「努力、努力」と思いつめるあまり、努力すること自体が一番の価値だと錯覚してしまっては元も子もない。
それは、ある種の傲慢(ごうまん)である。
だから、ときには、受け身の姿勢になって、小さな恍惚を「授けられる」という心境に浸ってみてもいいのではないか。
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チルチルとミチルという兄妹が、幸せの青い鳥を探しにいく話だ。
遠くまで探しに行くが、見つけたのは、結局は自分の家の中だった、という何とも幸せの本質をつく話だ。
「幸せ」はどこか遠くにあるものではなく、自分のまわりで見つけるものであり、感じるものである、ということ。
努力して、必死になって探しにいくものでもない。
「幸せ」は他の人から指摘されることでもなく、「幸せ」という現象があるわけでもない。
ただひとえに自分で「感じるもの」だからだ。
「人間の最大の悪は何か。それは鈍感である」(野村克也)
必死の努力をしてお金を稼ぎ、地位を築いたとしても、感じ方が鈍かったら、幸せを感じることはできない。
永遠に幸せを感じることはできない。
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