人の心に灯をともす 5550 だれ一人見るものはなくても

【だれ一人見るものはなくても】5550



森信三師の心に響く言葉より…



人間というものは、平生、事のない場合においても、下坐行として何か一つ二つは、持続的に心がけてすることがなければ、自分を真に鍛えていくことはできにくいものです。

たとえば掃除当番の場合などでも、友人たちが皆いい加減にして帰ってしまった後を、ただ一人居残って、その後始末をするというようなところに、人は初めて真に自己を鍛えることができるのです。

それが他から課せられたのではなく、自ら進んでこれをやる時、そこには言い知れぬ力が内に湧いてくるものです。

そこでこうした心がけというものは、だれ一人見るものはなくても、それが五年、十年とつづけられていくと、やがてその人の中に、まごうことなき人間的な光が身につき出すのです。



世間の人々の多くは、世の中というものはあてにならないものだと申します。

しかし私は、世の中ほど正直なものはないと考えているのです。

ほんとうの真実というものは、必ずいつかは輝き出すものだと思うのです。


ただそれがいつ現れ出すか、三年、五年にして現れるか、それとも十年、二十年たって初めて輝き出すか、それとも生前において輝くか、ないしは死後に至って初めて輝くかの相違があるだけです。

人間も自分の肉体が白骨と化し去った後、せめて多少でも生前の真実の余光の輝き出すことを念じるくらいでなければ、現在眼前の一言一行についても、真に自己を磨こうという気持ちにはなりにくいものかと思うのです。


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森信三師は「下座行」についてこう語る。


『「下座行」というのは、一体どういうことかと申しますと、自分を人よりも一段と低い位置に身を置くことです。

言い換えれば、その人の真の値打ちよりも、二、三段下がった位置に身を置いて、しかもそれが「行」と言われる以上、いわゆる落伍者というのではなくて、その地位に安んじて、わが身の修養に励むことを言うのです。

そしてそれによって、自分の傲慢心が打ち砕かれるわけです。

すなわち、身はその人の実力以下の地位にありながら、これに対して不平不満の色を人に示さず、真面目にその仕事に精励する態度を言うわけです。』(運命を創る「修身教授録」/致知出版社)



自分の決めた一事を何年もの間、継続すること。

しかも、「だれ一人見るものはなくても」、それをやり続ける。

まさに、下座行だ。


それを禅では、「潜行蜜用(せんこうみつよう)は、愚(ぐ)の如く、魯(ろ)の如く」という。

本当に大切なことは、人目にふれず、目立たぬように行うこと。

まるで、愚か者で、鈍くて、のろまのように思われても、行い続ける。


「だれ一人見るものはなくても」という言葉を胸に刻みたい。





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