人の心に灯をともす 3960 パンの耳ちょうだい

【パンの耳ちょうだい】3960



志賀内泰弘氏の心に響く言葉より…


都心から私鉄で、二つの大きな川を越えて一時間余り。

終点手前の駅を降りると、「八起稲荷商店街」のアーチが出迎えてくれる。

「七転び八起、九難を払う」ご利益があると伝えられる稲荷神社の門前町だ。

その中に、「ベーカリー青山」はある。


店主の青山市郎は苦労人だった。

幼い頃に父親を病気で亡くした。

悲しみの中、母親は酒浸りになった。

市郎は泣きながら、何度も「お酒はもうやめてよ!」と頼んだが、酒量はますます増えた。

やがて母親は心を病み入院した。


市郎は、叔父の家に身を寄せることになる。

小学校三年の時のことだった。

その家は極貧だった。

叔父は、毎日のように競馬に出掛けていた。

叔母は昔、愛想を尽かして出て行ったらしい。

叔父は、一つ年下の従兄弟のアッチャンと市郎に命じた。

「食い物もらって来い!」と。


アッチャンは慣れているらしく、薄汚れたTシャツに着替えて出掛けた。

市郎は後ろからついて行く。

駅前のパン屋さんの前まで行くと、お客さんがいなくなったのを見計らって素早く店に入った。

慌てて追う。


「パンの耳ちょうだい」

店の人は、

「はいはい、用意してありますよ」

と嫌な顔一つせず、大きなビニール袋いっぱいのパンの耳を手渡してくれた。

二人で意気揚々として帰宅すると、叔父さんが怒鳴った。

「またパンの耳か!酒の肴(さかな)貰って来い!」

とっさにアッチャンと一歩後ずさる。

酔っぱらうと、叔父さんは殴るのだ。

一日のうち、小学校の給食の他、家ではご飯が食べられない。

市郎にとってはパンの耳はご馳走だった。


中学校を卒業すると、市郎はそのパン屋に住み込んで奉公することになった。

そこは天国だった。

なにしろ、毎食、耳ではなくてフワフワとしているパンの真ん中が食べられたからだ。

さらに、生まれて初めてクリームパンを食べた時は美味しくて涙が出た。


そして十五年が経ち、市郎は暖簾(のれん)分けして店をもたせてもらえることになった。

市郎はご主人に改まって言った。

「今までお世話になりました。これからはご主人に恩返しをしたいと思います」

するとご主人は微笑(ほほえ)んで、こう答えた。

「恩は返すもんじゃないよ。もしもこの先、困っている人がいたら、その人に親切にしてやりな」


市郎は、いつかこの話を、最近店で働き始めたシゲルにしてやりたいと思っていた。

そんな矢先のことだった。

週に一度、店仕舞いの直前にパンの耳をもらいに来る女の子がいる。

シゲルが、その女の子を探偵みたいに尾行して、家を突き止めたという。

口より先に手が出ていた。

憤りを抑えることができず、無意識に拳(こぶし)が上がっていた。


市郎は一年ほど前、女の子が最初に店にやって来た日のことが忘れらなかった。

店の前を何度も行ったり来たりした後、おどおどと貰われてきたばかりの子猫のような瞳をして店に入って来た。

蚊の鳴くような声で、

「パンの耳ちょうだい」

と言う。


市郎は、幼い頃の自分の姿と重なってしまい、胸が引きちぎれそうなほど苦しくなった。

女の子に、できたてのクリームパンを差し出した。

手を出そうとしないので、無理やりその手に掴ませた。

ニッコリ笑ってやると、夢中でクリームパンを食べ始めた。

口元に付いたクリームを指で拭ってやった。


「毎週土曜日の夜、裏口にパンの耳を用意しておくからね。

勝手にドアを開けて持って行きなさい」

と言い聞かせた。

幼い子どもとはいえ、慈悲を受けるには恥じらいがある。

深く事情を知ることは何の役にも立たない。

人には触れられたくない部分がある。

それでいい。

それが、自分の「恩返し」だと信じて。


三日目にシゲルを許し、女房を家まで迎えに行かせた。

そして、いつもと何ひとつ変わらない一日が始まった。

五日、十日…一ヵ月が経った。

あの日以来、女の子は姿を見せなくなった。

きっとシゲルが家を突き止めたことを感づかれたに違いない。

市郎は、「お前が余計なことをしたからだ!」と、もう一度怒鳴りたい気持ちをグッと堪えた。


さて、その日の夕刻、市郎が厨房の片づけをしていると、「あんたに会いたいって人が来てるよ」と、女房が呼びに来た。

店頭を振り向く。

そこにはスーツ姿の中年男性がいた。

粉だらけの手をパンパンッと叩きながら、

「どなた様でした?」

と言いかけてハッとした。

男性の後ろから、あの女の子がひょっこり顔を出したからだ。


「え!…もしかして」

「はい、この子の父親で、加藤良夫と申します。もうずいぶん長い間、パンの耳を恵んでいただいておりました」

「そんな…恵むなんてめっそうもない」

深く頭を下げる男性の肩に手を添え、

「頭を上げてください」

と頼んだ。


「今日は、ご主人にお礼を申し上げに参りました。

昔はこれでもバリバリの証券マンでした。

突然のリストラで職を失ったのが一年前のことです。

家内にも出て行かれ自暴自棄になりました。

ときどき日雇いの仕事に出掛けますが、体が思うように動きません。

うつ気味になり、ほとんど部屋にひきこもり状態です。

ついには娘をダシに物貰いに落ちぶれました。

そんな時でした。

ある日、娘がこちらで頂いて来た袋を開けると、クリームパンが入っているではありませんか。

いくつも…。

まさか娘が万引き、などとも疑いもしました。

聞けば、商店街の他の店でも娘はお世話になっていました。

八百屋のお爺さんはいつも『おやつだよ。お友達と食べなさい』と言って、娘に黒い斑点が無数についたバナナを何本もくれたそうです。

その話を聞き、泣けてきました。

私は思いました。

こんなことじゃダメだ。

この子のため、商店街の皆さんの好意に報いるためにも頑張ろうと」


「そうでしたか…」

女房もシゲルも、傍らで黙って聞いている。


「おかげさまで、今日、望む仕事に復帰できることが決まりました。それをイの一番にご報告したくて伺いました」

「よかった!よかったですね」

市郎は、男性の両手を握り、体を揺らして一緒に喜んだ。

「時間がかかるとは思いますが、いただいた御恩をお返ししたいと思います」


「いや、そんなことはお断りします」


急に表情を強張らせた市郎に、男性だけでなくシゲルも「え!?」と瞳を陰らせた。

「いつか、どこかの困っている人に手を差し伸べていただけたらそれでいいです」

そう言うと、市郎は棚のクリームパンを二つ取り、女の子に差し出した。


「いや…もうこれ以上は…」

「いえ、これは就職祝いです」

女の子は、心底嬉しいという無邪気な笑顔をして受け取った。

市郎の後ろでは、シゲルが目に涙を浮かべている。

泣くのをこらえているのか、顔が真っ赤だ。

それをみて、みんなが笑った。


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以前、平野秀典氏の公演で「恩送(おんおく)り」の話を聞いた。


『恩をもらい、恩を返すことを「恩返し」という。

恩をもらったのに知らんぷりをする人を「恩知らず」。

もらった恩を、もらった人ではなく他の人へ送っていくことを「恩送り」という。

これは江戸時代には日常的に使われていた言葉だ。

恩をもらった人がこの世から旅立ってしまって恩を返せない場合も、恩送りならできる』


我々はたくさんの有縁無縁の人たちから恩をもらっている。

しかし、その中には到底返せない恩もある。

すでに亡くなってしまった人、通りすがりに親切にしてくれた人、見知らぬ人、からの恩…


人知れず、恩送りができる人でありたい。





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