人の心に灯をともす 4099 もらうより、贈る側のほうが喜びが大きい

【もらうより、贈る側のほうが喜びが大きい】4099



教育者、哲学研究者、近内悠太氏の心に響く言葉より…


人間の新生児はなぜ未熟な状態で生まれてくるのでしょうか。

たとえば馬は生まれた直後に立ち上がることができます。

しかし、人間の新生児は立つことも、一人でものを食べることもできません。


なぜ人間の乳幼児は周囲の年長者による保護や教育が与えられなければ生きていくことができないという「弱さ」を抱えることになったのでしょうか。

ヒントは「直立歩行に適さない骨格」と「大きな脳」です。


日本でもベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』でも紹介されている理論ですが、ハラリによると、霊長類の骨格はもともと四足歩行に適したものでした。

四足歩行から直立歩行に移行するには腰回り、つまり骨盤を細める必要があり、それにともなって女性は産道が狭くなりました。

またこのとき、人間は他の動物たちよりもずっと大きな脳を獲得しつつありました。

つまり、人間の赤ちゃんは大きな脳を携えながら、狭くなった産道を通って生まれてこなければならないという難点を抱えることになったわけです。

人間は哺乳類の中で最も難産な種だそうです。


進化はどのようにしてこれを解決したかというと、脳の発達が完了する前の段階、すなわち「頭が大きくなる前の段階で出産する」という道を選びました。

それにより母体の生存率と子供の出生率が上がり、自然選択によって人間は早期の出産をするようになりました。

このようにして、人間は未熟な状態で生まれてくることになったわけです。


さて、重要なのはここからです。

出産後、成長途中の未熟な乳幼児を抱えた母親は数年間にわたって食べ物を自身の力で採集することができず、子育てを周囲の人間に手伝ってもらわなければならなくなりました。

それと同時に、人間のある能力が発達します。

ハラリの言葉を引きます。


人間が子供を育てるには、仲間が力を合わせなければならないのだ。

したがって、進化は強い社会的絆を結べるものを優遇した。


進化のプロセスからすれば、脳の小さい未熟な新生児を産むという解決策ではなく、大人の体のほうが進化して、直立歩行を可能にしながらも骨盤を大きくしたり、産道を広くするなどして脳が完成した子供を産めるようにする、という選択肢もありえたはずです。

しかし、自然はそのような身体的拡張ではなく、社会的能力のほうを選びました。

子育てや互いの生存のための信頼できる仲間。

見返りを求めず助け合える関係性。

僕らは、僕らが人間となって文字通り立ち上がった瞬間から、つまり、人類の黎明期の一番初めから、「他者からの贈与」「他者への贈与」を前提として生きてゆくことを運命づけられてしまったのです。

そして、そのような仕方で僕らはかろうじてこの世界を生き延びてきました。


信頼関係や助け合いは明らかに「サービス」ではありません。

ましてや「商品」ではありません。

そもそも市場というものが出現するはるか以前からある人類学的慣習ですから、そのようなタームで語れるはずがありません。

それらはいわば「お金では買えないもの」です。


僕らが必要としているにもかかわらずお金で買うことのできないものおよびその移動を、ひとまず「贈与」と呼ぶことにします。

それは定義上、商品やサービスという「市場に登場するもの」とは異なるものとなります。


贈与の不可解な点があります。

それは、贈り物はもらうだけでなく、贈る側、つまり差出人になることのほうが時として喜びが大きいという点にあります。

たしかに、自分の誕生日を誰にも祝ってもらえないとしたら寂しい。

でもそれ以上に、もし自分に「誕生日を祝ってあげる大切な人」「お祝いをさせてくれる人」がいなかったとしたら、もっと寂しい。

なぜもらうことよりも、あげることのほうがうれしいのでしょうか。

なぜ自分が祝われる以上に、誰かを祝うことが自身の喜びになるのか?


恋愛の場面が一番分かりやすいと思いますが、気になる相手に何かプレゼントを渡そうとしたとき、受け取ってもらえないという悲劇が起こることがあります。

贈与の受取の拒否。

それは何を意味するかというと、関係性の拒否です。

つまり「私はあなたと特別なつながりを持つつもりはない」という宣言となります。


なぜ贈与がつながりを生み出すかというと、贈与には必ず返礼が後続するからです。

「この前もらったお礼に…」

そのお礼はまたお礼を促(うなが)します。

その返礼は再び贈与として相手に手渡され、さらに再返礼、再々返礼…と、その関係性は「贈与の応酬」に変貌します。


つまり、贈与を受け取ってくれるということは、その相手がこちらと何等かの関係性、つまり「つながり」を持つことを受け入れてくれたことを意味します。

こちらの好意や善意は、必ずしも相手に受け入れられるとは限りません。

だから、プレゼントを受け取ってくれたり、こちらの祝福を受け入れてくれたりしたとき、僕らはうれしく感じるのです。


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近内氏なぜ「勉強」すべきなのかについてこう語ります。

『具体的に言えば、歴史を学ぶことです。

歴史を学びながら、もしその世界に自分が生まれ落ちていたら、この目には何が映るのか、どう行動するか、何を考えるかを意識的に考えるようにすることです。

そこに生きる一人の生身の人間としての自分を考えるのです。

そして、ふとその想像から戻ってきて、この現実の世界を見渡してみたとき、僕らにはあまりにも多くのものが与えられていることに気づくはずです。

これらは生まれる時代が異なっていたら、私のもとへは届かなかった、と。

ある歴史的な出来事には、さまざまな偶然的ファクターが関与しています。

歴史を学ぶというのは、そこに何ら必然性がなかったことを悟るプロセスでもあります。

この世界の壊れやすさ。

この文明の偶然性。

これに気づくために僕らは歴史を学ぶのです。』



今、この時代、この日本に生まれ、この今の年まで生きてこられたというのは、天からの贈与以外の何ものでもない。

そして、年を重ねれば重ねるほど、仕事や家族、友人たちとの出会いは、さまざまな「たまたま」という偶然の積み重ねだったことに気づく。

そのうちの一つでも歯車が欠けたら、今の人生は全く違ったものとなっていたはずだ。

それこそが、ギフトであり贈与。


だからこそ、我々はその受け取ったものを、次に贈与する。

「もらうより、贈る側のほうが時として喜びが大きい」


贈る人がいる幸せをかみしめたい。






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