人の心に灯をともす 4106 どれだけ多くのものを与えたか

【どれだけ多くのものを与えたか】4106



曹洞宗管長、板橋興宗(こうしゅう)氏の心に響く言葉より…


「一生の終わりに残るものは、われわれが集めたものではなく、われわれが与えたものだ」と言った人がいる。(ジェラール・シャンドリー)


亡くなってからも、人々から感謝され、なつかしく思われるのは、生前にどれだけ多くのものを与えたかによって決まる。

一生かけて集めた金銀、財宝も、あの世までもってゆくわけにはいかない。

残された財産の恩恵にあずかる人はごく一部の遺族に限られる。

しかも、時として醜い骨肉の争いの原因にもなりかねない。


人々に分け与えるものは、金銭や物品だけに限らない。

親切な心づかい、優しい言葉、涼しいまなさし…などもある。


「棺(かん)を覆(お)うて、人定(ひとさだ)まる」といわれている。

死んで棺のふたがしめられ、はじめてその人のほんとうの評価が定まるということである。

生きているうちは、おもねたり、取り入ったりする人もいる。

だが、死んだ人にまでお世辞をいう人はいない。


いい人だった、欲のふかい人だった…人々の胸に正直な印象が残る。

私たちは、学校でいろいろな先生に学んできた、どの先生にどういうことを教えられたか、こと細かに覚えている人はおるまい。

しかし、その先生がどんな人であったか…。

感じのよい先生、いやらしい先生など、その先生の全体像は、それなりに想い浮かんでくる。

これが、その先生が私たちに与えた「教育」の全体像といえよう。


講演などを聞くことがある。

後日、その人がどんなことを話したか、ほとんど忘れている。

だが聞きながらすんなり理解している時は、いつまでも「よい話だった、わかりやすかった」という感じを抱いている。

話題の内容は覚えていなくても、その人の全体像が脳細胞の栄養となっている。


理解しにくい話は、むずかしい話だった、つまらなかった、という拒否反応の印象ばかりで脳の栄養にはならない。

私たちはいずれ死んで灰になる。

自分が与えたものだけが人々の心の中に生きている。

生前、人々に与えることの少ない人は、死んで間もなく忘れ去られてしまう。


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「浄玻璃(じょうはり)の鏡の前に立つまでは、秘めておきたしあのこともこのことも」(相田みつを)


人は、死ぬとき誰もが浄玻璃の鏡の前に立つという。

浄玻璃の鏡の前に立つと、一瞬にしてその人の人生が鏡に映し出される。

人に与えた苦しみや悲しみが多ければ、それを見て、身もだえするほどの苦しみとなる。

反対に、人に与えた喜びや楽しさが多ければ、それを見て、極楽にいるときのように楽しく、嬉しい気持ちになる。


どんな財産も車も豪邸も、社会的地位も、あの世には持っていけない。

また、自分の体も、自分の思い出も、あの世には持って行けない。


「棺(かん)を覆(お)うて、人定(ひとさだ)まる」


どれだけ多くのものを人々に与えたか…

この世に、温かな思い出をたくさん残せる人でありたい。





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