人の心に灯をともす 4134 神仏を敬い、陰徳を積む
【神仏を敬い、陰徳を積む】4134
神主、帝塚山(てづかやま)大学客員教授、岡本彰夫(あきお)氏の心に響く言葉より…
《天に無禄の人を生ぜずといえり》(南北相伝極意・相伝修身禄)
江戸時代に、水野南北先生という相学者がいました。
相学者とは、「人相見」です。
先生が一生を費やして、どうすれば人は幸せになれるのか、運を開くことができるのかを追求し、世に遺された本が、五冊からなる『南北相伝極意・相伝修身禄』なのです。
この本の初めに「天に無禄の人を生ぜず」とあるように、先生は「食を大切にせよ」ということを、大きな眼目としていました。
私たちがおぎゃーと生まれてくるときに、天はすべての人が幸せになるための「物」や「事」を用意してくださる。
人は誰でも、それを持ってこの世に生まれてくるのです。
神様は「この人は一生のうちにこれだけのお米を食べ、これだけのお酒を飲み、何着の服を着て、何枚の紙を使える」など、食や物を保証してくださっている。
だからこの世に「食べていけない」人はいない、ということです。
神様は私たち一人ひとりに見合った、幸せの弁当箱を持たせてくださいます。
この弁当箱は、私たちが生きている限り大事にしていかなければならないものです。
食べ物を粗末にしたり、むやみに食べすぎてはいけません。
後や先を考えずに早弁をすると、肝心なときに食べる物がなくなり、お腹をすかせることになります。
これは食べ物だけに限ったことではありません。
苦楽もそうでしょう。
もし一生のうちに、その人が苦労しなければならない分量というものがあるとすれば、若いうちにセッセと苦労すると老いてから幸せになり、逆に若いうちに楽しみを尽くしてしまえば、あとは苦労しか残っていないということになります。
天からいただいた弁当箱は無限ではありません。
人としての努力や精進が必要です。
そして、この弁当箱がある限り、天は必ず私たちをご覧になっているのです。
「私さえ良ければいい」という考えではいけません。
「人様のために」と考えて行動する人には、必ずそのお褒めが天からあります。
しかし、結果を求めて行動してはなりません。
心から「人様がお幸せに」と思ってする純真な行為にこそ、天のお褒めがあるのです。
『神様が持たせてくれた弁当箱』幻冬舎
https://amzn.to/2IuYqGt
本書の中に「人相の達人」の話があった。
『江戸時代に人相の達人といわれた、五嶽道人(ごがくどうじん)の逸話をご紹介しましょう。
あるとき、五嶽道人が多くの弟子を引き連れて街の中を歩いていたところ、向こうから大きな米袋を担いだ人が歩いてきました。
道人はその人の顔を観て、咄嗟(とっさ)に「今に大騒ぎがおこるぞ」といいますが、注意の言葉も与えずに、そのまま通り過ぎて行ったのです。
しばらくして、後方で人々の「ワーッ」という声がまきおこり、一行が後ろをふりかえると、その米袋が裂け、道にお米が散乱して大騒ぎになっていたといいます。
この出来事が、後日悪い評判となりました。
相を究めた五嶽道人ほどの人物なら、危ない相を観た途端、すぐさま注意して、未然に防ぎ止めてやれたはずだというのです。
相を研究して、それで生計を立てているプロならば、その力は人の幸せのために役立てるべきであって、「どうだ、当たったであろう」とほくそえむだけならば、単なる「アテモノ」にしかすぎないだろうと、当時の人々は評価したのです。
ところが、相というものは、心掛けによって刻々と変化する、いわば「活物」とされています。
また昔から、人相見の敵は、「神仏祖先を敬っている者と、陰徳積善をする者」だともいわれています。
つまり、いくら悪い相が出ていても、心から神仏を尊んでいる人と、常に徳を積んでいる人には「冥加」があって、見えない世界の力で未然に助けられるので、鑑定がはずれてしまうというのです。
人相は医学の発達もみない時代に研究された事例の積み重ねです。
いわば、統計学なのです。
しかし、それをさらに超える偉大な力が存在することにも気づかねばなりません。』
昨今は、神仏や祖先を敬うと言ってもなかなかそれがすんなり通じない時代だ。
家に、仏壇や神棚がない家も多く、お墓参りやお朔日(ついたち)参りなどの神社参拝の習慣がないからだ。
親が日頃、神仏を敬っていれば、言わずとも子供も自然にそれに倣(なら)う。
実は、年齢を重ねれば重ねるほど、神仏への崇敬の念が必要となる。
なぜなら、だんだんとあの世に近くなってくるからだ。
そして、同時に陰徳を積む必要がある。
陰徳とは、人に知られることなく、密かにする良い行いのこと。
「陰徳陽報(いんとくようほう)」(淮南子・えなんじ)という言葉がある。
陰徳を積めば、必ずよい報いが現れる、ということ。
良いことをすると、すぐに誰かに言いたくなるのは人情だ。
しかし、そこをグッと我慢する。
しかも、それをSNSなどで発信してしまったら、陰徳にはならない。
神仏を敬い、陰徳を積む人でありたい。
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神主、帝塚山(てづかやま)大学客員教授、岡本彰夫(あきお)氏の心に響く言葉より…
《天に無禄の人を生ぜずといえり》(南北相伝極意・相伝修身禄)
江戸時代に、水野南北先生という相学者がいました。
相学者とは、「人相見」です。
先生が一生を費やして、どうすれば人は幸せになれるのか、運を開くことができるのかを追求し、世に遺された本が、五冊からなる『南北相伝極意・相伝修身禄』なのです。
この本の初めに「天に無禄の人を生ぜず」とあるように、先生は「食を大切にせよ」ということを、大きな眼目としていました。
私たちがおぎゃーと生まれてくるときに、天はすべての人が幸せになるための「物」や「事」を用意してくださる。
人は誰でも、それを持ってこの世に生まれてくるのです。
神様は「この人は一生のうちにこれだけのお米を食べ、これだけのお酒を飲み、何着の服を着て、何枚の紙を使える」など、食や物を保証してくださっている。
だからこの世に「食べていけない」人はいない、ということです。
神様は私たち一人ひとりに見合った、幸せの弁当箱を持たせてくださいます。
この弁当箱は、私たちが生きている限り大事にしていかなければならないものです。
食べ物を粗末にしたり、むやみに食べすぎてはいけません。
後や先を考えずに早弁をすると、肝心なときに食べる物がなくなり、お腹をすかせることになります。
これは食べ物だけに限ったことではありません。
苦楽もそうでしょう。
もし一生のうちに、その人が苦労しなければならない分量というものがあるとすれば、若いうちにセッセと苦労すると老いてから幸せになり、逆に若いうちに楽しみを尽くしてしまえば、あとは苦労しか残っていないということになります。
天からいただいた弁当箱は無限ではありません。
人としての努力や精進が必要です。
そして、この弁当箱がある限り、天は必ず私たちをご覧になっているのです。
「私さえ良ければいい」という考えではいけません。
「人様のために」と考えて行動する人には、必ずそのお褒めが天からあります。
しかし、結果を求めて行動してはなりません。
心から「人様がお幸せに」と思ってする純真な行為にこそ、天のお褒めがあるのです。
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本書の中に「人相の達人」の話があった。
『江戸時代に人相の達人といわれた、五嶽道人(ごがくどうじん)の逸話をご紹介しましょう。
あるとき、五嶽道人が多くの弟子を引き連れて街の中を歩いていたところ、向こうから大きな米袋を担いだ人が歩いてきました。
道人はその人の顔を観て、咄嗟(とっさ)に「今に大騒ぎがおこるぞ」といいますが、注意の言葉も与えずに、そのまま通り過ぎて行ったのです。
しばらくして、後方で人々の「ワーッ」という声がまきおこり、一行が後ろをふりかえると、その米袋が裂け、道にお米が散乱して大騒ぎになっていたといいます。
この出来事が、後日悪い評判となりました。
相を究めた五嶽道人ほどの人物なら、危ない相を観た途端、すぐさま注意して、未然に防ぎ止めてやれたはずだというのです。
相を研究して、それで生計を立てているプロならば、その力は人の幸せのために役立てるべきであって、「どうだ、当たったであろう」とほくそえむだけならば、単なる「アテモノ」にしかすぎないだろうと、当時の人々は評価したのです。
ところが、相というものは、心掛けによって刻々と変化する、いわば「活物」とされています。
また昔から、人相見の敵は、「神仏祖先を敬っている者と、陰徳積善をする者」だともいわれています。
つまり、いくら悪い相が出ていても、心から神仏を尊んでいる人と、常に徳を積んでいる人には「冥加」があって、見えない世界の力で未然に助けられるので、鑑定がはずれてしまうというのです。
人相は医学の発達もみない時代に研究された事例の積み重ねです。
いわば、統計学なのです。
しかし、それをさらに超える偉大な力が存在することにも気づかねばなりません。』
昨今は、神仏や祖先を敬うと言ってもなかなかそれがすんなり通じない時代だ。
家に、仏壇や神棚がない家も多く、お墓参りやお朔日(ついたち)参りなどの神社参拝の習慣がないからだ。
親が日頃、神仏を敬っていれば、言わずとも子供も自然にそれに倣(なら)う。
実は、年齢を重ねれば重ねるほど、神仏への崇敬の念が必要となる。
なぜなら、だんだんとあの世に近くなってくるからだ。
そして、同時に陰徳を積む必要がある。
陰徳とは、人に知られることなく、密かにする良い行いのこと。
「陰徳陽報(いんとくようほう)」(淮南子・えなんじ)という言葉がある。
陰徳を積めば、必ずよい報いが現れる、ということ。
良いことをすると、すぐに誰かに言いたくなるのは人情だ。
しかし、そこをグッと我慢する。
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