人の心に灯をともす 4536 石を投げる資格があるのだろうか
【石を投げる資格があるのだろうか】4536
元ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子氏の心に響く言葉より…
「外見と心」、この二つも必ずしも相反するものではない。
私たちは相手に見せることの出来ない心を、物で表し、態度で示し、言葉に表現して相手に伝えようとする。
これは、心と体を併せもつ人間の宿命といえる。
キリストがお嫌いになったのは偽善であった。
醜いものを内にもっていながら、もっていないかのように見せかけ、他人の弱さを糾弾するファリザイ人、偽善者たちに対して、キリストはあからさまに、その嫌悪を示された。
ある日のこと、姦淫の現場を押さえられた女性がキリストの前に引き立てられてくる。
モーゼの律法に従ってこの女を石打ちの刑に処すべきか、それとも憐みをかけて釈放すべきかと、ファリザイ人たちはキリストに、二者択一を迫る。
釈放せよと言えば、神の掟をないがしろにすると責められるであろうし、石打ちにせよと言えば、日頃、罪人を赦せと説いている自らの訓えに背くことになる。
この、絶対絶命の窮地を、キリストは相手の意表を突く返答で切り抜け、さらに、人間の行動に先立つ心、目に見ない思いこそ、裁かれるべきものであるということをものの見事に示されたのであった。
「あなたたちの中で、罪のない人がまずこの女に石を投げなさい」
キリストは、この女をどうするのかとの問いには答えず、石を投げる“資格”を相手に問いただしている。
それに応えるかのように、石を投げることなく、一人去り、二人去って、残ったのは、女とキリストだけになった時、キリストは女に向かって、
「私もあなたを罰しない。行きなさい。これからはもう罪をおかさないように」
と言われたのであった。
ただ一人、女に石を投げる資格をもっていたにもかかわらず、キリストは投げなかった。
しかし、厳しくさとしている。
「これからはもう罪をおかさないように」
罪そのものに対しては厳しく、罪人に対しては、あくまでも優しいキリストであった。
「私がいつも、この度のように、助けてやれるわけではないのだよ」
と、きっとキリストのまざなしは語っていたことであろう。
『忘れかけていた大切なこと』PHP文庫
https://amzn.to/3qOmlly
昨今、マスコミやSNSで芸能人や有名人の罪を必要以上に攻める傾向がある。
キリストの言うように、「我々の中で、罪のない人がいるだろうか?」。
自分のことをさておいて、人の罪ばかりをなじったり、非難するのは、あまりに無責任すぎる。
他人事だとよけいに激しい言動になるのは、マスコミやSNSの常だが、それにしても人を傷つける言葉が飛び交っている。
終戦直後、日本ではこんな事件があった。
1947年(昭和22年)10月、東京地方裁判所の山口良忠判事(34歳)が、栄養失調のために死亡した。
法律違反の闇市で食料を買うことを拒否し、正式な配給の食料だけで生きようとしたためだった。
山口判事本人は、闇市で食料を売ったり買ったりしている庶民を「食糧管理法」違反で裁く立場にあったので、法律を守る立場から、法律違反のヤミの食料に手を出すわけにはいかないと考えた。
つまり、日本国民は当時、山口判事以外はすべて闇市で食料を購入するという法律違反をしていたということだ。
現代でもそれは同じだ。
どんな小さなことであれ、法律違反を一度もせず、人の道に反する道徳規範を破っていない、と言いきれる人はひとりもいないだろう。
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」という良寛さんの歌にあるように、人は、善と悪、正と邪、真と偽、明と暗、陽と陰、実と虚、等々の「裏と表」を見せ、それらを時によりさらけ出して生きている。
罪は厳しく問われるべきだが、「そこから先は神の領域」なのかもしれない。
誰かを非難したくなったとき、我が胸に手を当てて自問したい…
人を裁く資格があるのだろうか、と。
■メルマガの登録と解除はこちらから http://hitonokokoro.com/
■「人の心に灯をともす」のfacebookページです♪http://www.facebook.com/hitonokokoro
■【人の心に灯をともす】のブログはこちらhttp://ameblo.jp/hiroo117/
■Twitterはこちらからhttps://twitter.com/hiroo117
元ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子氏の心に響く言葉より…
「外見と心」、この二つも必ずしも相反するものではない。
私たちは相手に見せることの出来ない心を、物で表し、態度で示し、言葉に表現して相手に伝えようとする。
これは、心と体を併せもつ人間の宿命といえる。
キリストがお嫌いになったのは偽善であった。
醜いものを内にもっていながら、もっていないかのように見せかけ、他人の弱さを糾弾するファリザイ人、偽善者たちに対して、キリストはあからさまに、その嫌悪を示された。
ある日のこと、姦淫の現場を押さえられた女性がキリストの前に引き立てられてくる。
モーゼの律法に従ってこの女を石打ちの刑に処すべきか、それとも憐みをかけて釈放すべきかと、ファリザイ人たちはキリストに、二者択一を迫る。
釈放せよと言えば、神の掟をないがしろにすると責められるであろうし、石打ちにせよと言えば、日頃、罪人を赦せと説いている自らの訓えに背くことになる。
この、絶対絶命の窮地を、キリストは相手の意表を突く返答で切り抜け、さらに、人間の行動に先立つ心、目に見ない思いこそ、裁かれるべきものであるということをものの見事に示されたのであった。
「あなたたちの中で、罪のない人がまずこの女に石を投げなさい」
キリストは、この女をどうするのかとの問いには答えず、石を投げる“資格”を相手に問いただしている。
それに応えるかのように、石を投げることなく、一人去り、二人去って、残ったのは、女とキリストだけになった時、キリストは女に向かって、
「私もあなたを罰しない。行きなさい。これからはもう罪をおかさないように」
と言われたのであった。
ただ一人、女に石を投げる資格をもっていたにもかかわらず、キリストは投げなかった。
しかし、厳しくさとしている。
「これからはもう罪をおかさないように」
罪そのものに対しては厳しく、罪人に対しては、あくまでも優しいキリストであった。
「私がいつも、この度のように、助けてやれるわけではないのだよ」
と、きっとキリストのまざなしは語っていたことであろう。
『忘れかけていた大切なこと』PHP文庫
https://amzn.to/3qOmlly
昨今、マスコミやSNSで芸能人や有名人の罪を必要以上に攻める傾向がある。
キリストの言うように、「我々の中で、罪のない人がいるだろうか?」。
自分のことをさておいて、人の罪ばかりをなじったり、非難するのは、あまりに無責任すぎる。
他人事だとよけいに激しい言動になるのは、マスコミやSNSの常だが、それにしても人を傷つける言葉が飛び交っている。
終戦直後、日本ではこんな事件があった。
1947年(昭和22年)10月、東京地方裁判所の山口良忠判事(34歳)が、栄養失調のために死亡した。
法律違反の闇市で食料を買うことを拒否し、正式な配給の食料だけで生きようとしたためだった。
山口判事本人は、闇市で食料を売ったり買ったりしている庶民を「食糧管理法」違反で裁く立場にあったので、法律を守る立場から、法律違反のヤミの食料に手を出すわけにはいかないと考えた。
つまり、日本国民は当時、山口判事以外はすべて闇市で食料を購入するという法律違反をしていたということだ。
現代でもそれは同じだ。
どんな小さなことであれ、法律違反を一度もせず、人の道に反する道徳規範を破っていない、と言いきれる人はひとりもいないだろう。
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」という良寛さんの歌にあるように、人は、善と悪、正と邪、真と偽、明と暗、陽と陰、実と虚、等々の「裏と表」を見せ、それらを時によりさらけ出して生きている。
罪は厳しく問われるべきだが、「そこから先は神の領域」なのかもしれない。
誰かを非難したくなったとき、我が胸に手を当てて自問したい…
人を裁く資格があるのだろうか、と。
■メルマガの登録と解除はこちらから http://hitonokokoro.com/
■「人の心に灯をともす」のfacebookページです♪http://www.facebook.com/hitonokokoro
■【人の心に灯をともす】のブログはこちらhttp://ameblo.jp/hiroo117/
■Twitterはこちらからhttps://twitter.com/hiroo117