人の心に灯をともす 5278 なんでも手に入ることは、実は不幸せなこと
【なんでも手に入ることは、実は不幸せなこと】5278
鍵山秀三郎氏の心に響く言葉より…
《本当の幸せは「何もない」ところから生まれる》
これはトルストイが書いた『戦争と平和』という本の後ろのほうに出てくる言葉です。
ピエールという登場人物が、こういうことをいっています。
「一切の不幸せ、人間にとっての不幸は、不足から生ずるのではなく、有り余るところから生ずるのだ」
なんでも欲しいものが手に入る。
自分の求めたものがなんでも手に入ると、「自分は幸せだ」と思い込みます。
ところが、そうではない。
なんでも手に入ることは、実は不幸せなことなのだとトルストイはいっているのです。
私も疎開を経験するまでは、欲しいものがすぐになんでも手に入ることを幸せだと思っていました。
しかし、いまになって振り返って考えてみますと、あのままでは私は、刑務所に入るようなとんでもない人間になっていたかもしれない。
しかし、疎開をして、ありがたいことに何もない環境の中に置かれた。
欲しいものどころか、その日その日を生きるのに必要最低限のものしかない生活を送ることになりました。
そのような、いつも不足している、物不足の生活に陥ったときにはじめて、私には両親に対する感謝の気持ちが湧いてきた。
世の中を生きていくというのは大変なものだ、ということに気づいたのです。
このように、本当の幸せというのは、厳しいルールがありながら、そのルールを自分がいつも受け入れて、やがてルールがあることさえ気がつかなくなったときにやってくるものです。
そのときはじめて、本当に幸せになれる。
だから、持っていない、足りないというのは、とてもありがたいことなんです。
本当の幸せというものを違う言い方でいいますと、それは「いつまでたっても色あせないもの」です。
それはどういう意味でしょうか?
たとえば、物やお金のように形があるものは、いよいよこれで命が尽きるというときに、いくらたくさん持っていたところで、なんの役にも立ちません。
ところが、幸せというのは形がありません。お金で買えるものでもありません。
きちんとルールを守る生き方を続けることによって、心の中に生まれるものです。
だから、いつまでたっても色あせることがないのです。
それから、本当の幸せとは、いくら受けても受けても飽きないものです。
また、いくら相手に与えても、相手も飽きることがない。
これが本当の幸せの定義です。
今の自分に与えられた環境がとてもありがたいものだということにぜひとも気づいて、それを大事にして、幸せになっていただきたいと思い ます。
坂村真民先生の詩を読んで、終わりにしたいと思います。
だまされてよくなり 悪くなってしまっては駄目
いじめられてよくなり いじけてしまっては駄目
ふまれておきあがり 倒れてしまっては駄目
いつも心は燃えていよう 消えてしまっては駄目
いつも瞳は澄んでいよう 濁ってしまっては駄目
(香川県善通寺市立東中学校での講演より)抜粋引用
『あとからくる君たちへ伝えたいこと』致知出版社
https://amzn.to/3kV52kY
お金も、物も、そして健康も、あればあるほどその大切さを感じなくなり、ぞんざいに扱うようになる。
宝くじが当たり莫大なお金が転がり込んできた人は、それをめぐって親族で争いが起きたり、数年でそれを使いはたしてしまったりと、結局不幸になる人が多いという。
日頃、体が頑丈で病気一つしたことがない人は、体をいたわることをせず不摂生を繰り返し、結局病気になってしまうという例もある。
お金や物といった「豊かさ」にどっぷりつかると、人はその状態に慣れてしまう。
そして、それがどんなに「ありがたいこと」なのかを忘れてしまう。
健康な人は、病気になってみてはじめて健康のありがたさに気づく。
マスクや規制のない通常の生活のありがたさも、この何年かのコロナ禍があってはじめて気づいた。
まさに、「当たり前」の反対が「ありがたし(有り難し)」であるように、豊かなことや当たり前の日常は、有ること難しいまるで「奇跡」のようなことなのだ。
「一切の不幸せ、人間にとっての不幸は、不足から生ずるのではなく、有り余るところから生ずるのだ」
本当は…
「裸にて生まれてきたに何不足」。
淡々と過ぎる「当たり前の日常」のありがたさに感謝したい。
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鍵山秀三郎氏の心に響く言葉より…
《本当の幸せは「何もない」ところから生まれる》
これはトルストイが書いた『戦争と平和』という本の後ろのほうに出てくる言葉です。
ピエールという登場人物が、こういうことをいっています。
「一切の不幸せ、人間にとっての不幸は、不足から生ずるのではなく、有り余るところから生ずるのだ」
なんでも欲しいものが手に入る。
自分の求めたものがなんでも手に入ると、「自分は幸せだ」と思い込みます。
ところが、そうではない。
なんでも手に入ることは、実は不幸せなことなのだとトルストイはいっているのです。
私も疎開を経験するまでは、欲しいものがすぐになんでも手に入ることを幸せだと思っていました。
しかし、いまになって振り返って考えてみますと、あのままでは私は、刑務所に入るようなとんでもない人間になっていたかもしれない。
しかし、疎開をして、ありがたいことに何もない環境の中に置かれた。
欲しいものどころか、その日その日を生きるのに必要最低限のものしかない生活を送ることになりました。
そのような、いつも不足している、物不足の生活に陥ったときにはじめて、私には両親に対する感謝の気持ちが湧いてきた。
世の中を生きていくというのは大変なものだ、ということに気づいたのです。
このように、本当の幸せというのは、厳しいルールがありながら、そのルールを自分がいつも受け入れて、やがてルールがあることさえ気がつかなくなったときにやってくるものです。
そのときはじめて、本当に幸せになれる。
だから、持っていない、足りないというのは、とてもありがたいことなんです。
本当の幸せというものを違う言い方でいいますと、それは「いつまでたっても色あせないもの」です。
それはどういう意味でしょうか?
たとえば、物やお金のように形があるものは、いよいよこれで命が尽きるというときに、いくらたくさん持っていたところで、なんの役にも立ちません。
ところが、幸せというのは形がありません。お金で買えるものでもありません。
きちんとルールを守る生き方を続けることによって、心の中に生まれるものです。
だから、いつまでたっても色あせることがないのです。
それから、本当の幸せとは、いくら受けても受けても飽きないものです。
また、いくら相手に与えても、相手も飽きることがない。
これが本当の幸せの定義です。
今の自分に与えられた環境がとてもありがたいものだということにぜひとも気づいて、それを大事にして、幸せになっていただきたいと思い ます。
坂村真民先生の詩を読んで、終わりにしたいと思います。
だまされてよくなり 悪くなってしまっては駄目
いじめられてよくなり いじけてしまっては駄目
ふまれておきあがり 倒れてしまっては駄目
いつも心は燃えていよう 消えてしまっては駄目
いつも瞳は澄んでいよう 濁ってしまっては駄目
(香川県善通寺市立東中学校での講演より)抜粋引用
『あとからくる君たちへ伝えたいこと』致知出版社
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お金も、物も、そして健康も、あればあるほどその大切さを感じなくなり、ぞんざいに扱うようになる。
宝くじが当たり莫大なお金が転がり込んできた人は、それをめぐって親族で争いが起きたり、数年でそれを使いはたしてしまったりと、結局不幸になる人が多いという。
日頃、体が頑丈で病気一つしたことがない人は、体をいたわることをせず不摂生を繰り返し、結局病気になってしまうという例もある。
お金や物といった「豊かさ」にどっぷりつかると、人はその状態に慣れてしまう。
そして、それがどんなに「ありがたいこと」なのかを忘れてしまう。
健康な人は、病気になってみてはじめて健康のありがたさに気づく。
マスクや規制のない通常の生活のありがたさも、この何年かのコロナ禍があってはじめて気づいた。
まさに、「当たり前」の反対が「ありがたし(有り難し)」であるように、豊かなことや当たり前の日常は、有ること難しいまるで「奇跡」のようなことなのだ。
「一切の不幸せ、人間にとっての不幸は、不足から生ずるのではなく、有り余るところから生ずるのだ」
本当は…
「裸にて生まれてきたに何不足」。
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