人の心に灯をともす 3568 挨拶は器の大きな人物(徳の高い人)になるための、とてもいい練習

【挨拶は器の大きな人物(徳の高い人)になるための、とてもいい練習】3568



小林正観さんの心に響く言葉より…


『中陰の花』で芥川賞を受賞された玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんは、臨済宗のお寺の僧侶でもあります。

その宗久さんが、天竜寺で修行をしていたときの話です。

毎朝宗久さんが廊下の拭き掃除をしていると、庭先から「おはようございます」と、にこやかな笑顔で挨拶をされる作務衣(さむえ)姿の方がおられました。


宗久さんは、当初はこの方がいったい何者なのかわからず、ただ、毎朝爽やかな笑顔で挨拶されるので、とても感じのいい人だとは思っていたそうです。

後でわかったのですが、この方が天竜寺の貫長(かんちょう・最高位の方)でした。


この貫長さんは、毎朝決まった時間に天竜寺近くを散歩されていたそうです。

そのときに毎日出会う人がいました。

その人に対して、貫長さんは毎日同じように「おはようございます」と挨拶をして会釈をなさいました。


しかし、声をかけられた人は、無視をして一切返事をすることがなかったといいます。

しかし貫長さんは、相手の笑顔や挨拶が返って来ようが来るまいが関係なく、毎朝笑顔で「おはようございます」と言い続けたのだそうです。

三年経ったある日のこと。

いつものように「おはようございます」と笑顔で挨拶した貫長さんに対して、その人はついに「おはようございます」と声を発しました。

そして、言い終わった後に、「ごめんなさいっ」と、がばっとひれ伏したというのです。


この人の心の中に何があったのか推測するすべはありません。

推測することも無意味なことでしょう。

何があったのかということは大した問題ではなく、大切なのは、かたくなに挨拶を拒み続け、視線を交わすことさえしなかった人に対して、一ヵ月や二ヵ月ではなく、三年もの間、笑顔で「おはようございます」と言い続けた人が世の中にいる、という事実です。

その結果として、そのかたくなに人を拒み続けた人が、ついに心を開き、涙ながらに「ごめんなさい」と謝ったというのです。


貫長さんは、返事をしなかったことを責めていたわけではありません。

ただ自らの生き方として、相手がどういう態度であろうと関係なく「おはようございます」と言い続けた、ということに徹した、ということだと思います。

「これほど自分が挨拶をしているのに、返事をしないとは何事だ」と言うのは簡単でしょうし、一般的な反応かもしれません。

しかし、それは挨拶している意味がありません。

挨拶をすることで結局ケンカを売っているのでは、何にもならないでしょう。


その人に「おはようございます」と声をかけることは、貫長さんの側からすると「自分の勝手」ということであったのかもしれません。

自分が行として、ただそのように毎日を送り、そういうことに徹し、相手がどのような反応であろうと関係なくそのように生きる、という姿であったのでしょう。

宗久さんが語る貫長さんの姿は、とても爽やかで、清々しいものでした。


『すべてを味方すべてが味方』三笠書房




立花大敬さんの「挨拶行」という話がある。

『「挨拶とは、僕は君という人間が僕の世界(心)に存在することを認めていますよ、許しているんですよ」という相手に対する合図だというのです。

ということは、もし出会った人に挨拶しないということは、「僕は君という人間が僕の世界(心)に存在することを認めていませんよ、許していませんよ」という合図になるのですね。

だから挨拶しないということは相手に対してとても失礼にあたるし、挨拶されない人もとても腹が立つわけなのです。

AさんがBさんに挨拶しないとします。BさんはAさんに挨拶しても全然挨拶が返ってこないものですから、次第にAさんに挨拶しなくなります。

これを先ほどの「認める、認めない」の議論を元に考えますと、Bさんは次第に「自分の世界(心)にAさんが存在することを認めなくなる、許さなくなる」ということですね。

挨拶とはギブ・アンド・テイクのものなのでしょうか。

見返りを求めてしているものなのでしょうか。

そうではないのですね。

好きな人も、嫌いな人も、みんな自分の世界(心)の内側に存在することを許し、認めることができる。

挨拶はそんな器の大きな人物(徳の高い人)になるための、とてもいい練習なのです。

自分がした挨拶に反応があってもなくても、それは問題ではないのです。

すべての人を許し、認めることができる。

私がそんな大きな人物となれますようにと祈りを込めてする「挨拶行」なのです』(2万人の人生を変えた23通の手紙 夢をかなえる「いちばん簡単な考え方」)より


多くの人は、誰かに何回か挨拶をして、挨拶が返ってこないと、その人には二度とあいさつをしなくなる。

また、自分より年下や、役職が下だったりする人から、「相手から先に挨拶がなかった」、と腹を立てる人もいる。

いずれも、高慢の種が芽生え始めたあらわれだ。


相手から挨拶が返って来ようが来るまえが、修業として挨拶をし続けるのが「挨拶行」。

挨拶は器の大きな人物(徳の高い人)になるための、とてもいい練習。







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