人の心に灯をともす 5609 自分のできることを徹底する
【自分のできることを徹底する】5690
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
いまから二千年近く前、ローマ帝政期を生きたエピクテトスという哲学者がいた。
彼は若いころ奴隷だった。
その体験をもとにストア派の哲学を学び、のちに解放されて自由の身になると、ギリシャに移って学校を開いた。
彼自身は書物を残さなかったが、弟子の一人が彼の言葉を書き取ったものが『語録』として後世に伝えられた。
エピクテトスの哲学の核心は、自分の意志で自由になる範囲とならない範囲を厳密に認識するところにある。
自分の意志の範囲内にあるものには全力を尽くして手を打つ。
だが、自分の意志の範囲外にあるもの、例えば天変地異による災害や人が自分をどう評価しているかなどは自分の意志ではどうにもならないものなのだから、そういうものは潔くあきらめて、心を動かさない、と説くのである。
その教えは、どのような状況下にあっても人生を主体的肯定的に生きる術として、ヒルティをはじめ多くの知性の指針となった。
『学問のすゝめ』は福沢諭吉の代表作としてつとに知られる。
だが、その名は聞いていても、手にしたことがなかった。
初めて読んだのは数年前。
その新鮮さに驚かされた。
例えば、第十七編「人望論」を播(ひもと)いてみよう。
そこには「顔つきを明るくすること」という項目があり、こんなことが書かれている。
「人の顔色は、いわば家の門口のようなものだ。
広く人に交わって自由に客を招き寄せるには、まず門口を開放して、玄関を掃除し、ともかくも人を来やすくさせることが肝要であろう。
人に交わるのに、顔色をや わらげようともせず、かえって偽善者の風を学んで、わざとむずかしい顔つきを見せるのは、家の入口に骸骨をぶら下げ、門の前に棺桶をすえつけるようなものだ」
わかりやすい比喩で、諭吉が体験から会得した生活哲学が丁寧に説かれている。
そしてそれは、近代日本を構築した明治という時代の背骨になっていることがわかるのである。
哲学とは、例えれば南十字星のようなものだろう。
南十字星さえ見失わなければ、羅針盤がなくても船乗りは航路を誤ることはない。
ひるがえって、いまの日本である。
国政を預かる者、経済に携わる者、教育を担う者、さらには国民一人ひとりのあり方に至るまで、いまこそわれわれは哲学を、と思わないわけにはいかない。
『小さな人生論』致知出版社
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エピクテトスはこんな言葉を残した。
『記憶しておくがよい。
君は演劇の俳優である。
劇作家が望んでいる通りに、短編であれば短く、長編であれば長い劇を演じる俳優だ。
作家が君に物乞いの役を演じてもらいたければ、そんな端役でさえも君はごく自然に演じるように。
足が悪い人でも、殿様でも、庶民でも同じこと。
君の仕事は、与えられた役を立派に演じることだ。
その役を誰に割り振るかは、また別の人の仕事である。』(ダイヤモンドオンライン)より
俳優はどんな役を振り分けられるかわからない。
あるときは、「金持ち」また、あるときは「貧乏」で「病弱」であるかもしれない。
その役に、愚痴を言ったり、不平不満を持ったりせず、しっかりと堂々と演じなければならない。
置かれた場所で咲く、ということだ。
それが、「自分の意志の範囲内にあるものには全力を尽くして手を打つが、自分の意志の範囲外にあるもののことは考えない」ということ。
「誰もができる簡単なことを、誰もができないくらい続ける」(鍵山秀三郎)という言葉がある。
それがたとえば、福沢諭吉のいう「顔つきを明るくすること」。
そんな簡単なことを、誰もができないくらい徹底する。
振り分けられた役がどんな役であろうと、そこで一所懸命努力をすること。
そこで、一頭地を抜きんでること。
天変地異等、自分の範囲の及ばないことは考えず…
自分のできることを徹底する人でありたい。
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藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
いまから二千年近く前、ローマ帝政期を生きたエピクテトスという哲学者がいた。
彼は若いころ奴隷だった。
その体験をもとにストア派の哲学を学び、のちに解放されて自由の身になると、ギリシャに移って学校を開いた。
彼自身は書物を残さなかったが、弟子の一人が彼の言葉を書き取ったものが『語録』として後世に伝えられた。
エピクテトスの哲学の核心は、自分の意志で自由になる範囲とならない範囲を厳密に認識するところにある。
自分の意志の範囲内にあるものには全力を尽くして手を打つ。
だが、自分の意志の範囲外にあるもの、例えば天変地異による災害や人が自分をどう評価しているかなどは自分の意志ではどうにもならないものなのだから、そういうものは潔くあきらめて、心を動かさない、と説くのである。
その教えは、どのような状況下にあっても人生を主体的肯定的に生きる術として、ヒルティをはじめ多くの知性の指針となった。
『学問のすゝめ』は福沢諭吉の代表作としてつとに知られる。
だが、その名は聞いていても、手にしたことがなかった。
初めて読んだのは数年前。
その新鮮さに驚かされた。
例えば、第十七編「人望論」を播(ひもと)いてみよう。
そこには「顔つきを明るくすること」という項目があり、こんなことが書かれている。
「人の顔色は、いわば家の門口のようなものだ。
広く人に交わって自由に客を招き寄せるには、まず門口を開放して、玄関を掃除し、ともかくも人を来やすくさせることが肝要であろう。
人に交わるのに、顔色をや わらげようともせず、かえって偽善者の風を学んで、わざとむずかしい顔つきを見せるのは、家の入口に骸骨をぶら下げ、門の前に棺桶をすえつけるようなものだ」
わかりやすい比喩で、諭吉が体験から会得した生活哲学が丁寧に説かれている。
そしてそれは、近代日本を構築した明治という時代の背骨になっていることがわかるのである。
哲学とは、例えれば南十字星のようなものだろう。
南十字星さえ見失わなければ、羅針盤がなくても船乗りは航路を誤ることはない。
ひるがえって、いまの日本である。
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エピクテトスはこんな言葉を残した。
『記憶しておくがよい。
君は演劇の俳優である。
劇作家が望んでいる通りに、短編であれば短く、長編であれば長い劇を演じる俳優だ。
作家が君に物乞いの役を演じてもらいたければ、そんな端役でさえも君はごく自然に演じるように。
足が悪い人でも、殿様でも、庶民でも同じこと。
君の仕事は、与えられた役を立派に演じることだ。
その役を誰に割り振るかは、また別の人の仕事である。』(ダイヤモンドオンライン)より
俳優はどんな役を振り分けられるかわからない。
あるときは、「金持ち」また、あるときは「貧乏」で「病弱」であるかもしれない。
その役に、愚痴を言ったり、不平不満を持ったりせず、しっかりと堂々と演じなければならない。
置かれた場所で咲く、ということだ。
それが、「自分の意志の範囲内にあるものには全力を尽くして手を打つが、自分の意志の範囲外にあるもののことは考えない」ということ。
「誰もができる簡単なことを、誰もができないくらい続ける」(鍵山秀三郎)という言葉がある。
それがたとえば、福沢諭吉のいう「顔つきを明るくすること」。
そんな簡単なことを、誰もができないくらい徹底する。
振り分けられた役がどんな役であろうと、そこで一所懸命努力をすること。
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