人の心に灯をともす 5778 今を真摯に生きる
【今を真摯に生きる】5778
臨済宗相国寺派管長、有馬頼底(らいてい)氏の心に響く言葉より…
修行者は行脚をしますが、 「ただ渓回(けいめぐ)り 路転(みちてん)ずるを見て 知らず 身の桃源に在ることを」という言葉が『禅林句集(ぜんりんくしゅう)』にあります。
ひたすら歩いている。
それでいつの間にか、理想の境地、桃源郷に来ているのだけれど、来たということすら忘れている。
禅は体験の仏教で、行動することが何より大切です。
先ほどの慧能(えのう)禅師の話で言えば、米を搗(つ)くというその行為が尊いのです。
それを通して、いつの間にか悟りの境地へ至っていた。
そしてそれすらわからなかった。
桃源郷に来ているにもかかわらず、来たということを全然、意識していない。
平櫛田中(ひろぐしでんちゆう)さんという方がいました。
高村光雲などと並ぶ、日本を代表する彫刻家の一人ですが、満百歳の誕生日を前に、三十年分の材料を仕入れたという逸話があります。
「六十、七十は鼻たれ小僧。男ざかりは百から百から。わしもこれからこれから」とおっしゃったのですが、この方は、死ぬことを忘れていたのですね。
死を忘れて、日々を精一杯に生きていた。
あの方は、その時その時のこと、「今」しか考えてない。
また、山口伊太郎(いたろう)さんも忘れ難い人です。
西陣の織匠(しょくしょう)でしたが、七十歳になられた時に、源氏物語絵巻四巻を西陣で再現しようと思い立って、そのお仕事に邁進された方です。
この方を見ていると、「丁寧に生きる」というのは、こういう風に心をこめて生きることなのだなと教えられました。
平櫛さんもそうでしたが、一瞬一瞬を大事にしておられるのです。
山口さんは百五歳で亡くなったのですが、百五歳になっても、一日に一回は必ず機(おり)の前に座っておられたと聞きます。
『よろこびの禅』角川oneテーマ21
https://q.bmd.jp/91/119/2437/__no__
本書の中に慧能(えのう)禅師の話があった。
『慧能禅師が米を搗(つ)いている姿を師の五祖弘忍(ぐにん)禅師が見て、「求道の人は法のために体を忘れる。まさにそのとおりだ」と感嘆したという。
冥想や坐禅をしなくても、日々の行いそのものがそのまま修行であることを教えてくれた人だ。』
明末の読書人、陸紹珩(りくしょうこう)が書いた箴言集(しんげんしゅう)が「酔古堂剣掃」(すいこどうけんそう)がある。
その中にこんな一節がある。
人一字知らずして而(しか)も詩意多く
一偈(げ)参ぜずして而も禅意多く
一勺(しゃく)濡(ぬ)らさずして而も酒意多く
一石(せき)暁(さと)らずして而も画意多きあり
淡宕(たんとう)の故なり
まったく文字を知らない勉学も知らぬ野人である。
そんな人なのに何故か詩的であり詩人である。
座禅など一度もしたことがない。
禅の勉強もしたことがない。
それなのに何故か禅的である。
禅味あふれ飄々(ひょうひょう)としている。
まったく酒は一滴も飲めない。
なのに何故か宴席の座持ちもよい。
酒飲みとも話ができる。
酒の趣味もわかる。
石ころ一つ描くことができない。
絵を習ったこともない。
それなのに何故か絵心がある。
ちょっと味のある絵も描く。
こういう人は人間が無欲であって、物事にあまり拘泥(こうでい)せず、淡々としているからだ。(安岡正篤)
まさに、ただひたすら歩いてきた。
桃源郷に来ているにもかかわらず、来たということを全然、意識していない人だ。
執着がなく、恬淡としている。
人間が無欲で、淡々としている。
この今、この瞬間を真摯(しんし)に生きる人でありたい。
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修行者は行脚をしますが、 「ただ渓回(けいめぐ)り 路転(みちてん)ずるを見て 知らず 身の桃源に在ることを」という言葉が『禅林句集(ぜんりんくしゅう)』にあります。
ひたすら歩いている。
それでいつの間にか、理想の境地、桃源郷に来ているのだけれど、来たということすら忘れている。
禅は体験の仏教で、行動することが何より大切です。
先ほどの慧能(えのう)禅師の話で言えば、米を搗(つ)くというその行為が尊いのです。
それを通して、いつの間にか悟りの境地へ至っていた。
そしてそれすらわからなかった。
桃源郷に来ているにもかかわらず、来たということを全然、意識していない。
平櫛田中(ひろぐしでんちゆう)さんという方がいました。
高村光雲などと並ぶ、日本を代表する彫刻家の一人ですが、満百歳の誕生日を前に、三十年分の材料を仕入れたという逸話があります。
「六十、七十は鼻たれ小僧。男ざかりは百から百から。わしもこれからこれから」とおっしゃったのですが、この方は、死ぬことを忘れていたのですね。
死を忘れて、日々を精一杯に生きていた。
あの方は、その時その時のこと、「今」しか考えてない。
また、山口伊太郎(いたろう)さんも忘れ難い人です。
西陣の織匠(しょくしょう)でしたが、七十歳になられた時に、源氏物語絵巻四巻を西陣で再現しようと思い立って、そのお仕事に邁進された方です。
この方を見ていると、「丁寧に生きる」というのは、こういう風に心をこめて生きることなのだなと教えられました。
平櫛さんもそうでしたが、一瞬一瞬を大事にしておられるのです。
山口さんは百五歳で亡くなったのですが、百五歳になっても、一日に一回は必ず機(おり)の前に座っておられたと聞きます。
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本書の中に慧能(えのう)禅師の話があった。
『慧能禅師が米を搗(つ)いている姿を師の五祖弘忍(ぐにん)禅師が見て、「求道の人は法のために体を忘れる。まさにそのとおりだ」と感嘆したという。
冥想や坐禅をしなくても、日々の行いそのものがそのまま修行であることを教えてくれた人だ。』
明末の読書人、陸紹珩(りくしょうこう)が書いた箴言集(しんげんしゅう)が「酔古堂剣掃」(すいこどうけんそう)がある。
その中にこんな一節がある。
人一字知らずして而(しか)も詩意多く
一偈(げ)参ぜずして而も禅意多く
一勺(しゃく)濡(ぬ)らさずして而も酒意多く
一石(せき)暁(さと)らずして而も画意多きあり
淡宕(たんとう)の故なり
まったく文字を知らない勉学も知らぬ野人である。
そんな人なのに何故か詩的であり詩人である。
座禅など一度もしたことがない。
禅の勉強もしたことがない。
それなのに何故か禅的である。
禅味あふれ飄々(ひょうひょう)としている。
まったく酒は一滴も飲めない。
なのに何故か宴席の座持ちもよい。
酒飲みとも話ができる。
酒の趣味もわかる。
石ころ一つ描くことができない。
絵を習ったこともない。
それなのに何故か絵心がある。
ちょっと味のある絵も描く。
こういう人は人間が無欲であって、物事にあまり拘泥(こうでい)せず、淡々としているからだ。(安岡正篤)
まさに、ただひたすら歩いてきた。
桃源郷に来ているにもかかわらず、来たということを全然、意識していない人だ。
執着がなく、恬淡としている。
人間が無欲で、淡々としている。
この今、この瞬間を真摯(しんし)に生きる人でありたい。
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