人の心に灯をともす 4850 神仏に面(おもて)を向ける
【神仏に面(おもて)を向ける】4850
葉室頼昭(はむろよりあき)氏の心に響く言葉より…
昔から「中庸は徳の至れるものなり」といわれてきました。
これは人格がすぐれて徳のある人は、昼か夜か、正か不正か、善か悪か、賛成か反対かなど両極端なことは言わずに、何ごとも中庸の人生を送っている人だという意味で使われております。
それではこの中庸というのは、日本人にとってどのようなものなのでしょうか。
私は中庸とは物事を対立したものと考えるのではなく、すべてのものをいとおしむこころ、すなわち寛容のこころのあらわれであると思うのです。
日本人は昔から、移り変り、つまり「むすび」のなかに神を見るという素晴らしい人生観を持っています。
外国の人は昼か夜か、善か悪か、賛成か反対かなど、物事を対立で考えますが、日本人は夕方、西の空に沈む真っ赤な夕日の姿に感動し、それを神さまのお姿として拝むように、昼から夜に移り変わる夕方に神を見てきました。
すなわち中庸に神を見てきたのです。
そして夕方は、昼から夜へ移り変わる姿でありますが、同時に昼と夜を結ぶ姿でもあります。
この「むすぶ」(結ぶ)は、また「ゆう」 (結う)ともいい、「結納」とか「髪を結う」などと使われているように、二つのものを結びつけるという意味があります。
この「むすび」によって、そこに神のいのちがあらわれてくるのです。
この結びの「ゆう」はもちろん、夕方の「夕(ゆう)」と同じことであり、さらに言葉を話すことを「云う(ゆう)」などといいますが、これもさきほどと同じで、自分と相手を結び、いのちを伝えるというところからきているのです。
ですから、言葉は対話でなければいのちは伝わりません。
それなのに現在の日本人、特に若い人は早口で一方的に喋る人が多いのですが、これでは言葉ではありません。
『古事記』の最初の神代巻には、高天原から最初に生まれてきた神さまは、結びの神と書かれております。
科学も何もない昔に、どうして日本人はこの宇宙の真実の姿を知っていたのでしょうか。
改めて日本人の素晴らしさに感動するのです。
神社では毎日お祭りが行なわれており、神職はいろいろな作法でお祭りを行ないますが、その時必ず「揖(ゆう)」というお辞儀を行ないます。
これはまっすぐ背筋を伸ばした状態と深いお辞儀である「拝」の中間のお辞儀で、全ての作法はこの揖というお辞儀をしてから行なわれます。
これも移り変りのなかに神を見るという日本人の原点があらわれており、今まで当たり前のようにこの作法をしてきましたが、このような深い意味を知り、改めて日本人の人生観の素晴らしさに驚くのです。
大祓詞という祝詞があります。
この祝詞は日本語の原点である大和言葉で書かれた、真実のことばを伝える祝詞です。
これを一言でいえば、この祝詞を唱えれば人間が持っているすべての罪・穢れが祓われるということです。
罪・穢れを祓うというと、外国の対立の考えからすれば除去するということになりますが、先にも述べましたように、日本人は元来対立して争うという考えは持っておりませんので、除去ではなく罪・穢れを消すというのが、祓いの意味です。
しかし、ものを消すというのも、ある意味では対立の考えですから、祓いの原点にあるのは、罪・穢れを再びわれわれを生かす姿に変える、リサイクルするということなのです。
このように日本人は対立ではなく、いわゆる中庸に神を見る民族ですから、すなわち 「うつくしび」に「徳」という字を当てはめたのは、すべてのものをいとおしむ神さまの中庸のこころがあらわれていること、すなわち、神の姿があらわれたときに、日本人は美しいと感じたのではないかと私は思うのです。
このように考えてきますと、昔から伝えられてきた日本人の美に対する文化は、全て神の姿に近づき、それを表現しようとすることだと思うのです。
それはまた、日本人が 昔から行なってきた剣道、柔道、茶道、衣紋道などの「道」という考え方のなかにもあらわれているのです。
『神道と《うつくしび》』春秋社
https://amzn.to/3JAIL3n
本書の中に「神道に向き合う」という心に響く一節がありました。
『よく、老後は何か趣味を持たないといけないなどと言われますが、この趣味の「趣」という字は、「おもむき」という大和言葉に当てはめた漢字です。
「おも」とは、「面」つまり「顔」のことです。
「むき」は、「向く」ことですから、「おもむき」というのは、つまり、顔が向くところということです。
ですから、趣味とは本来、何か特別な楽しみを持つことではなく、自分の顔がどの方向に向いているかということです。
このようなことから、老後に特別な趣味を持つというのではなくて、顔、すなわち心を神さまの方に向けて、それに向かって一生努力していく。
これが老人の真実の姿であり、そこに老人の真実の美があるのだと思います。
このような人生を歩めば、若い人たちはみな老人を敬い、尊敬するようになります。
これが本当の人間の人生の姿ではないでしょうか。
現在のように若者が老人をばかにし、何か厄介もののように考え、よく六十五歳以上の老人が増えることは、その国にとってよくないことのようにいわれますが、これはとんでもないことです。
老人を敬わない国は必ず衰えていくのです。
現在の教育は理屈ばかりでこのような大切なことは教えておりませんし、また老人も老後を自分の楽しみの趣味に生きようなどとするから、若者から厄介もの扱いされるのです。
もう一度、神さまが与えられた人間の原点に反り、老いも若きも神さまに近づく夢を持つ人生を歩まなければ、日本の国の未来はないと思います。』
葉室氏は、『中庸とは物事を対立したものと考えるのではなく、すべてのものをいとおしむこころ、すなわち寛容のこころ』だという。
それは、つまり「許し」ということ。
小林正観さんは、50年間許すことのできなかった相手でさえ、好きになることは難しくても、「感謝」をすることはできるという。
「いとおしむこころ」「寛容のこころ」は、感謝から生まれる。
感謝を続けることによって「許す」ことができる。
そして、大事なことは、年齢を重ねれば重ねるほど、面(おもて)を神仏の方に向けること。
なぜなら年配者は、この世から去り、あの世という神仏の領域に確実に近づいているからだ。
そして、世のため人のために尽くす。
老人になっても、自分の楽しみばかり考えている利己の人だったら、まわりから疎(うと)まれ、避けられることになる。
神仏を敬い、世のため人のために尽くし…
常に感謝の心で生きる人でありたい。
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葉室頼昭(はむろよりあき)氏の心に響く言葉より…
昔から「中庸は徳の至れるものなり」といわれてきました。
これは人格がすぐれて徳のある人は、昼か夜か、正か不正か、善か悪か、賛成か反対かなど両極端なことは言わずに、何ごとも中庸の人生を送っている人だという意味で使われております。
それではこの中庸というのは、日本人にとってどのようなものなのでしょうか。
私は中庸とは物事を対立したものと考えるのではなく、すべてのものをいとおしむこころ、すなわち寛容のこころのあらわれであると思うのです。
日本人は昔から、移り変り、つまり「むすび」のなかに神を見るという素晴らしい人生観を持っています。
外国の人は昼か夜か、善か悪か、賛成か反対かなど、物事を対立で考えますが、日本人は夕方、西の空に沈む真っ赤な夕日の姿に感動し、それを神さまのお姿として拝むように、昼から夜に移り変わる夕方に神を見てきました。
すなわち中庸に神を見てきたのです。
そして夕方は、昼から夜へ移り変わる姿でありますが、同時に昼と夜を結ぶ姿でもあります。
この「むすぶ」(結ぶ)は、また「ゆう」 (結う)ともいい、「結納」とか「髪を結う」などと使われているように、二つのものを結びつけるという意味があります。
この「むすび」によって、そこに神のいのちがあらわれてくるのです。
この結びの「ゆう」はもちろん、夕方の「夕(ゆう)」と同じことであり、さらに言葉を話すことを「云う(ゆう)」などといいますが、これもさきほどと同じで、自分と相手を結び、いのちを伝えるというところからきているのです。
ですから、言葉は対話でなければいのちは伝わりません。
それなのに現在の日本人、特に若い人は早口で一方的に喋る人が多いのですが、これでは言葉ではありません。
『古事記』の最初の神代巻には、高天原から最初に生まれてきた神さまは、結びの神と書かれております。
科学も何もない昔に、どうして日本人はこの宇宙の真実の姿を知っていたのでしょうか。
改めて日本人の素晴らしさに感動するのです。
神社では毎日お祭りが行なわれており、神職はいろいろな作法でお祭りを行ないますが、その時必ず「揖(ゆう)」というお辞儀を行ないます。
これはまっすぐ背筋を伸ばした状態と深いお辞儀である「拝」の中間のお辞儀で、全ての作法はこの揖というお辞儀をしてから行なわれます。
これも移り変りのなかに神を見るという日本人の原点があらわれており、今まで当たり前のようにこの作法をしてきましたが、このような深い意味を知り、改めて日本人の人生観の素晴らしさに驚くのです。
大祓詞という祝詞があります。
この祝詞は日本語の原点である大和言葉で書かれた、真実のことばを伝える祝詞です。
これを一言でいえば、この祝詞を唱えれば人間が持っているすべての罪・穢れが祓われるということです。
罪・穢れを祓うというと、外国の対立の考えからすれば除去するということになりますが、先にも述べましたように、日本人は元来対立して争うという考えは持っておりませんので、除去ではなく罪・穢れを消すというのが、祓いの意味です。
しかし、ものを消すというのも、ある意味では対立の考えですから、祓いの原点にあるのは、罪・穢れを再びわれわれを生かす姿に変える、リサイクルするということなのです。
このように日本人は対立ではなく、いわゆる中庸に神を見る民族ですから、すなわち 「うつくしび」に「徳」という字を当てはめたのは、すべてのものをいとおしむ神さまの中庸のこころがあらわれていること、すなわち、神の姿があらわれたときに、日本人は美しいと感じたのではないかと私は思うのです。
このように考えてきますと、昔から伝えられてきた日本人の美に対する文化は、全て神の姿に近づき、それを表現しようとすることだと思うのです。
それはまた、日本人が 昔から行なってきた剣道、柔道、茶道、衣紋道などの「道」という考え方のなかにもあらわれているのです。
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本書の中に「神道に向き合う」という心に響く一節がありました。
『よく、老後は何か趣味を持たないといけないなどと言われますが、この趣味の「趣」という字は、「おもむき」という大和言葉に当てはめた漢字です。
「おも」とは、「面」つまり「顔」のことです。
「むき」は、「向く」ことですから、「おもむき」というのは、つまり、顔が向くところということです。
ですから、趣味とは本来、何か特別な楽しみを持つことではなく、自分の顔がどの方向に向いているかということです。
このようなことから、老後に特別な趣味を持つというのではなくて、顔、すなわち心を神さまの方に向けて、それに向かって一生努力していく。
これが老人の真実の姿であり、そこに老人の真実の美があるのだと思います。
このような人生を歩めば、若い人たちはみな老人を敬い、尊敬するようになります。
これが本当の人間の人生の姿ではないでしょうか。
現在のように若者が老人をばかにし、何か厄介もののように考え、よく六十五歳以上の老人が増えることは、その国にとってよくないことのようにいわれますが、これはとんでもないことです。
老人を敬わない国は必ず衰えていくのです。
現在の教育は理屈ばかりでこのような大切なことは教えておりませんし、また老人も老後を自分の楽しみの趣味に生きようなどとするから、若者から厄介もの扱いされるのです。
もう一度、神さまが与えられた人間の原点に反り、老いも若きも神さまに近づく夢を持つ人生を歩まなければ、日本の国の未来はないと思います。』
葉室氏は、『中庸とは物事を対立したものと考えるのではなく、すべてのものをいとおしむこころ、すなわち寛容のこころ』だという。
それは、つまり「許し」ということ。
小林正観さんは、50年間許すことのできなかった相手でさえ、好きになることは難しくても、「感謝」をすることはできるという。
「いとおしむこころ」「寛容のこころ」は、感謝から生まれる。
感謝を続けることによって「許す」ことができる。
そして、大事なことは、年齢を重ねれば重ねるほど、面(おもて)を神仏の方に向けること。
なぜなら年配者は、この世から去り、あの世という神仏の領域に確実に近づいているからだ。
そして、世のため人のために尽くす。
老人になっても、自分の楽しみばかり考えている利己の人だったら、まわりから疎(うと)まれ、避けられることになる。
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