人の心に灯をともす 5170 知行合一とは

【知行合一とは】5170



伊與田覺氏の心に響く言葉より…



知は行の始め、行は知の成るなり。

聖学はただ一箇(いっこ)の功夫(こうふ)。

知行は分かって両事と作(な)すべからず。(「伝収録」安岡正篤)



〈知ることは行うことの始めであり、行うことは知ることの完成であって、それは一つの事である。

聖人の学問はただ一つの工夫あるのみで、知ることと行うことを分けて二つの問題としないのである〉



皆さんも陽明学を学ぶ、学ばないに関わらず、この問題は、いろいろと考えさせられるところであろうと思います。

これを「知行合一(ちこうごういつ)」と言います。


朱子学はどちらかというと「知先行後」と言って、知ることが先で、行うことが後だと主張します。

ものを知らなければ、行うことにならないから、知ることが先だという考え方です。


それに対して陽明学は、知るだけでは本当に知ったとは言えない。

それは、行動に移してこそ、本当の知だと言います。

実践の裏付けがあってこそ、初めてそれを知ったと言えるのである。

「知行合一である」――これが陽明学の考え方です。


朱子学も決して、行いというものを軽視しているわけではありません。

しかし 「知先行後」というものの考え方からすると、「行」うためには先に「知」らなけれ ばなりません。

それが陽明学では、「知」ると「行」うことは合一である。

行動が伴わなければ、その知は単なる空空寂寂(くうくうじゃくじゃく)たるものである、と言うのです。


したがって、平和なときには朱子学的な生き方が一般に受け入れられますが、混乱の時期には陽明学の「知行合一」の考え方が有効性を発揮します。

徳川時代の学問の主流をなしたのは朱子学でしたが、朱子学だけでは幕末の行き詰まった状況を打開することはできませんでした。

そこで脚光を浴びたのが陽明学です。

吉田松陰、西郷南洲(隆盛)、山田方谷(ほうこく)などの優れた陽明学の徒が非常に大きな業績を残し、後世に影響を及ぼしました。



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伊藤肇氏は、王陽明についてこう書いている。


『「天下のこと万変といえども、吾がこれに応ずるゆえんは、喜怒哀楽の四者を出でず」(王陽明)

人生は千変万化、いろいろさまざまであるが、自分がこれらの問題をテキパキと処理できる理由は「人生のいかなる変化も、つきつめれば、喜怒哀楽の四つを出ないこと」を知っているからだ。

よく考えてみれば、いかに喜び、いかに怒り、いかに哀しみ、いかに楽しむか、ということが人生のすべてである。

世の中には、道徳というと「一切、喜怒哀楽を表面に出さない、感情などには動かされないことだ」などと頑(かたく)なに信じ込んでいる向きがあるが、これはとんでもない誤解である。

人生とは、いかに喜び、いかに怒り、いかに哀しみ、いかに楽しむかということ…つまり「いかに生きるか」ということに「正しい自律」をたてること、「原理原則」をもつことである。

そして、この「正しい自律」や「原理原則」これが「心性の学」であり「人間学」である。』(人間学/PHP文庫)より



せんじつめれば、政治も、経済も、経営も、すべては「情」で動く。

理屈としてはどんなに正しいことでも、嫌いなら、人はテコでも動かない。


好き嫌いという情で動き、「理屈」や「論理」では決して動かない。

つまり、喜怒哀楽が世の中を動かしているということだ。


理屈や論理は、「知」の世界であり、頭の領域だ。

行動とは情の世界。

「感動」の言葉の通り、感じて動くからだ。

頭でこねくりまわしているうちは、一歩も前に踏み出せない。


知行合一の人でありたい。






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