人の心に灯をともす 5907 自分の体は自分のものではない

【自分の体は自分のものではない】5907



京都文教大学学長、平岡聡(さとし)氏の心に響く言葉より…


《このからだも命も所有物も、「私のものではない」と知ること》



人は働いてお金を稼ぎ、そのお金で様々なものを手に入れます。

そして、お金で〈私が〉買ったものは〈私の〉ものであり、「それは〈私が〉買ったんだ。だから〈私の〉ものだ。他人のものではない」と主張します。

しかしそれは本当に私が買ったものであり、究極的に私のものといえるのでしょうか。


人間には自己に関して二つの「とらわれ」があります。

その一つが「我執(がしゅう)」。

「私が、私が」という〈自我意識〉です。


もう一つが「我所執(がしょしゅう)」。

「私のだ、私のだ」という〈所有意識〉です。


人間は、「私が、私が」と自己主張をします。

よいことは「私がやった」、悪いことは「私はやってない」などと、状況に応じて自己を出したり引っ込めたり、実に身勝手な存在です。

またひとたび自分の手に入れたものは「私のものだ」と主張し、奪われそうになると必死で守ろうとします。

どんな人も、大なり小なり我執と我所執とを振りかざして生きているのです。


「しかし、この私のからだや命は私だけのものだ」と言われるかもしれません。

でも、これもよく考えてみると、本当に〈私〉のものかどうかは疑わしくなります。


仏教は「縁起」を説きます。

つまり、私たち人間も含めてすべてのものは、様々な 縁(おかげ)によって成立していると説きます。

時間的に〈私の命〉は無限の過去にさかのぼる先祖の命の延長線上にありますし、空間的には、知人・友人・先生・ご近所・家族などからのおかげを被って生きています。


また食べ物や生活必需品を作るのにかかわった人や、私の命を維持するために犠牲になった生き物、さらにからだの中で働いている細菌類まで視野に入れると、私以外のすべてが私の存在を支えているといえます。

〈私〉という存在の中には、無数の〈私でないもの〉が私を支えているのです。

それでも「この私は私だけのものだ」と言えるでしょうか。


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筑波大名誉教授、村上和雄氏はこう語る。


『自分の体は自分のものだと思っているかもしれませんが、実は私たちの体はすべて借りもの、要するに“レンタル”なのです。

レンタルですので、期限が来れば返さねばなりません。

これが「死ぬ」ということです。

貸し主は地球、宇宙、そして神です。

体は地球や神からの借りものという考えは、昔から日本にあります。

神は、私たちに体を貸した際、レンタル料、まあ利息と表現してもいいですが、そういうものを取るようなケチ臭いことをしませんでした。

すべての人に対して無償で貸してくれたわけです。

それでは、借り主は誰でしょうか?

それが魂です。』

《神(サムシング・グレート)と見えない世界(矢作直樹・村上和雄/祥伝社新書)》より



まさに、体は神様からの借り物であり、同時にその体は、多くのご縁によって生かされている。

自分のものであるならば、どんなにぞんざいに扱おうが、乱暴に扱おうがその人の責任だから、まわりからとやかく言われることはない。


しかし、この体は借り物である。

しかも、神様からお借りしているのだとしたら、どうだろう。

とても、恐れ多くて、粗末に扱うことはできない。


「自分の体は自分のものではない」という言葉を胸に刻みたい。





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