人の心に灯をともす 5895 学んでいる人の年の取り方
【学んでいる人の年の取り方】5895
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
中国の古典の『礼記』に、こういう教えがあります。
まず二十代の人は「弱(じゃく)」といいます。
これは「冠(かん)す」、冠をつける年齢だということです。
二十代というのは、まだだらしないところがある。
だから、冠をしっかりつけて威儀を正していかなくてはいけない、という意味です。
三十代は「壮(そう)」といいます。
壮年の壮。
エネルギーが溢れている年代ですね。
四十代になると、それに体験が加わって「強」になる。
そして五十代は「苅(がい)」というんですね。
この字には「頭に白いものが交じる」という意味がありますけれど、同時に「刈り取る」という意味もあります。
つまり、三十代、四十代は一所懸命で力任せだから、いろんな無駄なものを身体につけている。
その無駄なものを取り払っていく年齢が五十代だといっているのではないかと思います。
それから六十代。
六十代は「耆(き)」というんですよ。
人生の黄金期です。
「耆」というのは「耂(おいかんむり)」の下に「旨」と書いています。
「旨」はうまいという意味です。
「旨」に魚ヘンをつけると「鮨」です。
鮨は刺身でご飯を食べるのとは違いますね。
独特のうまさを持った味です。
「旨」に手ヘンをつけると「指」です。
指は独特のデリケートな働きをします。
これは余談ですが、二本足で歩き、指を使えるようになって人間は人間になっていったのです。
つまり「耆」というのは、人生のあらゆる味、甘いもしょっぱいも酸っぱいも辛いも苦いも、あらゆる人生の味をみんなミックスした味が出てくるのが六十代だということです。
だから六十代は人生の最高の時です。
では七十代は何か。
七十代は「老人」です(笑)。
ただ皆さん、この「老」は、ただ老いるという意味だけではない。
「練り上がっていく」という意味があります。
そして、「熟していく」という意味がある。
六十代のなんともいえない味がさらに練り上がって、成熟していく年齢が七十代です。
八十代、九十代は、『礼記』は「耄(もう)」といっています。
「もうろくする」という意味です。
しかし八十は「薹(てつ)」ともいいます。
「老」が「至る」ということです。
佐藤一斎の 『言志四録』の一つに「言志薹録(てつろく)」というのがあります。
あの「耋」ですね。
なんともいえない旨味が練り上がって熟していったものが、さらに至る。
そういう年齢だというふうに解(かい)することもできます。
学んでいる人はそういうふうに年を取っていくのだ、ということを安岡教学は教えています。
『安岡正篤 心に残る言葉』致知出版社
https://q.bmd.jp/91/119/4591/__no__
《その年齢にふさわしい知恵を持たない者は、 生きることについて困難を抱えることになる。》
(ボルテール ・17~18世紀/フランス)
いくつになっても、どの年代であっても、我々のほんとうの値打ちは「学び続けているかどうか」によって決まる。
学ぶ心がなければ、自分の魂を磨くことはできないからだ。
「徳は孤(こ)ならず、必ず隣(となり)有り」という論語の言葉がある。
徳を積んだ人は、必ずその人に共感し協力する者が現れる。
だから、決して孤立することはない、と。
つまり、学び続けて、徳が高まった人の晩年は、たくさんの支持者やファンに囲まれて過ごすことができるということだ。
反対に、まったく学ばず、魂も磨かず、ただいたずらに年を取ってしまった者は、寂しい老人になるしかない。
いくつになっても、学び続け・・・
心豊かな人生を送りたい。
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藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
中国の古典の『礼記』に、こういう教えがあります。
まず二十代の人は「弱(じゃく)」といいます。
これは「冠(かん)す」、冠をつける年齢だということです。
二十代というのは、まだだらしないところがある。
だから、冠をしっかりつけて威儀を正していかなくてはいけない、という意味です。
三十代は「壮(そう)」といいます。
壮年の壮。
エネルギーが溢れている年代ですね。
四十代になると、それに体験が加わって「強」になる。
そして五十代は「苅(がい)」というんですね。
この字には「頭に白いものが交じる」という意味がありますけれど、同時に「刈り取る」という意味もあります。
つまり、三十代、四十代は一所懸命で力任せだから、いろんな無駄なものを身体につけている。
その無駄なものを取り払っていく年齢が五十代だといっているのではないかと思います。
それから六十代。
六十代は「耆(き)」というんですよ。
人生の黄金期です。
「耆」というのは「耂(おいかんむり)」の下に「旨」と書いています。
「旨」はうまいという意味です。
「旨」に魚ヘンをつけると「鮨」です。
鮨は刺身でご飯を食べるのとは違いますね。
独特のうまさを持った味です。
「旨」に手ヘンをつけると「指」です。
指は独特のデリケートな働きをします。
これは余談ですが、二本足で歩き、指を使えるようになって人間は人間になっていったのです。
つまり「耆」というのは、人生のあらゆる味、甘いもしょっぱいも酸っぱいも辛いも苦いも、あらゆる人生の味をみんなミックスした味が出てくるのが六十代だということです。
だから六十代は人生の最高の時です。
では七十代は何か。
七十代は「老人」です(笑)。
ただ皆さん、この「老」は、ただ老いるという意味だけではない。
「練り上がっていく」という意味があります。
そして、「熟していく」という意味がある。
六十代のなんともいえない味がさらに練り上がって、成熟していく年齢が七十代です。
八十代、九十代は、『礼記』は「耄(もう)」といっています。
「もうろくする」という意味です。
しかし八十は「薹(てつ)」ともいいます。
「老」が「至る」ということです。
佐藤一斎の 『言志四録』の一つに「言志薹録(てつろく)」というのがあります。
あの「耋」ですね。
なんともいえない旨味が練り上がって熟していったものが、さらに至る。
そういう年齢だというふうに解(かい)することもできます。
学んでいる人はそういうふうに年を取っていくのだ、ということを安岡教学は教えています。
『安岡正篤 心に残る言葉』致知出版社
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《その年齢にふさわしい知恵を持たない者は、 生きることについて困難を抱えることになる。》
(ボルテール ・17~18世紀/フランス)
いくつになっても、どの年代であっても、我々のほんとうの値打ちは「学び続けているかどうか」によって決まる。
学ぶ心がなければ、自分の魂を磨くことはできないからだ。
「徳は孤(こ)ならず、必ず隣(となり)有り」という論語の言葉がある。
徳を積んだ人は、必ずその人に共感し協力する者が現れる。
だから、決して孤立することはない、と。
つまり、学び続けて、徳が高まった人の晩年は、たくさんの支持者やファンに囲まれて過ごすことができるということだ。
反対に、まったく学ばず、魂も磨かず、ただいたずらに年を取ってしまった者は、寂しい老人になるしかない。
いくつになっても、学び続け・・・
心豊かな人生を送りたい。
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