人の心に灯をともす 5367 恐れかしこむことの大事さ
【恐れかしこむことの大事さ】5367
幸田露伴の心に響く言葉より…
いまの人に欠けているのが「恐れの気分」であり、もちたがらないのが「恐れの心情」である。
恐れるということは、けっして卑小(ひしょう)なことを意味していない。
真摯(しんし)で敬虔(けいけん)な、正直で謙遜(けんそん)な、そして心の奥底に勇猛精進の精神を抱いている者は、必ず恐れの心があるはずである。
その「恐れかしこむ」ということは、いいかえれば自分は小さな存在だから少しずつ大きくなろうと希望し、自分は弱いから少しずつ強くなろうと願い、愚かだから少しずつ賢くなろうと思い、また徳が足りないから少しずつ徳を積みたいとか、何事においても誇れるものがないから少しずつ積み上げたいと、謙虚に願うことである。
自分の過去と現在すべてをこれでよしと満足せず、美しいとせず、正しいとせず、恐れつつしみながら真剣に努力をしようとするのが、人間の本来あるべき心情ではあるまいか。
何を恐れるのか、何に恐れるのか。
それを「神」であるとしてもよいし、言葉を変えて「天」としてもよいだろう。
それをつきつめなくてもかまわない。
いっさいの雑念を捨てて恐れかしこむ心境に到達したときが、われわれのもっとも真実の生き方を実感できたときであり、これによって大いに力づけられていることは、多くの人たちの体験するところであろう。
われわれは自分たちの生活を真実のものとし、それを充実させるためにこそ努力をする。
しかしその努力が恐れにつながったものでなければ底の浅いものであって、その努力が長つづきするかどうか疑問である。
真に恐れかしこまなければ、真に修省(しゅうせい)することはできず、真に修省できなけ れば、真の努力はできず、真の努力がなされなければ、真の天の助けをもらうことはできない。
『幸田露伴「修省論」を読む 得する生き方 損する生き方』(渡部昇一)三笠書房
https://amzn.to/3OWsCdB
伊與田覺(いよださとる)氏は、「月刊『致知』の『中庸』に学ぶ人間学」の中でこう語っている。
『其(そ)の賭(み)ざる所に戒慎(かいしん)し、其の聞かざる所に恐懼(きょうく)す。
隠れたるより見(あらわ)るるは莫(な)く、微(すこ)しきより顕(あき)らかなるは莫(な)し。
故に君子その獨(ひとり)を慎(つつし)むなり。』《中庸・第一章》
君子は誰もみていないところでも、心を慎み戒(いまし)める。
誰も聞いていないところでも、自分の言動を恐れる。
隠れて誰も分からないように思うけれども、それを長く積み重ねていくというと、思いがけない時に明らかになってくる。
だから、君子は独りでいる時も、自分自身を慎まねばならない、と。
「君子は獨(ひとり)を慎む」という言葉の由来だ。
そのためには、自分は、まだまだ未熟、まだまだ足りない、と思うこと。
すると、そこに謙虚さが生まれる。
「恐れかしこむことの大事さ」を胸に刻みたい。
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いまの人に欠けているのが「恐れの気分」であり、もちたがらないのが「恐れの心情」である。
恐れるということは、けっして卑小(ひしょう)なことを意味していない。
真摯(しんし)で敬虔(けいけん)な、正直で謙遜(けんそん)な、そして心の奥底に勇猛精進の精神を抱いている者は、必ず恐れの心があるはずである。
その「恐れかしこむ」ということは、いいかえれば自分は小さな存在だから少しずつ大きくなろうと希望し、自分は弱いから少しずつ強くなろうと願い、愚かだから少しずつ賢くなろうと思い、また徳が足りないから少しずつ徳を積みたいとか、何事においても誇れるものがないから少しずつ積み上げたいと、謙虚に願うことである。
自分の過去と現在すべてをこれでよしと満足せず、美しいとせず、正しいとせず、恐れつつしみながら真剣に努力をしようとするのが、人間の本来あるべき心情ではあるまいか。
何を恐れるのか、何に恐れるのか。
それを「神」であるとしてもよいし、言葉を変えて「天」としてもよいだろう。
それをつきつめなくてもかまわない。
いっさいの雑念を捨てて恐れかしこむ心境に到達したときが、われわれのもっとも真実の生き方を実感できたときであり、これによって大いに力づけられていることは、多くの人たちの体験するところであろう。
われわれは自分たちの生活を真実のものとし、それを充実させるためにこそ努力をする。
しかしその努力が恐れにつながったものでなければ底の浅いものであって、その努力が長つづきするかどうか疑問である。
真に恐れかしこまなければ、真に修省(しゅうせい)することはできず、真に修省できなけ れば、真の努力はできず、真の努力がなされなければ、真の天の助けをもらうことはできない。
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伊與田覺(いよださとる)氏は、「月刊『致知』の『中庸』に学ぶ人間学」の中でこう語っている。
『其(そ)の賭(み)ざる所に戒慎(かいしん)し、其の聞かざる所に恐懼(きょうく)す。
隠れたるより見(あらわ)るるは莫(な)く、微(すこ)しきより顕(あき)らかなるは莫(な)し。
故に君子その獨(ひとり)を慎(つつし)むなり。』《中庸・第一章》
君子は誰もみていないところでも、心を慎み戒(いまし)める。
誰も聞いていないところでも、自分の言動を恐れる。
隠れて誰も分からないように思うけれども、それを長く積み重ねていくというと、思いがけない時に明らかになってくる。
だから、君子は独りでいる時も、自分自身を慎まねばならない、と。
「君子は獨(ひとり)を慎む」という言葉の由来だ。
そのためには、自分は、まだまだ未熟、まだまだ足りない、と思うこと。
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