人の心に灯をともす 5852 「愚」と「狂」と「遊」
【「愚」と「狂」と「遊」】5852
ひろさちや氏の心に響く言葉より…
禅が教えるのは、世間の物差しの捨て方です。
わたしたちは世間の中で生きていますが、そうは世間の言いなりにならないぞ。
どうせ世間はころころ変わるから・・・。
そのためには、3つのパターンがあります。
「愚」と「狂」と「遊」です。
「愚」は、まず、こちらが阿呆になること。
「私は阿呆です」と言うことは、謙遜のように聞こえるかもしれませんが、そうではないのです。
「わたしは世間の物差しには騙されないぞ、わたしは自分の物差しでもって、自由に生きるぞ」といった生き方です。
「狂」も同じです。
「私は狂っています」と言うことは、じつは世間のほうが狂っているのです。
そんな狂った世間の物差しを馬鹿にして、独自の物差しで生きましょう。
それが「狂」です。
そして「遊」。
わたしたちは観音菩薩であり、極楽世界からこの世界にしばらく遊びに来ました。
日本に滞在しているのだから、日本語を使いますが、しかし「世間人」になりきったわけではありません。
あくまでも仏の物差しに従って生きます。
そして、わたしたちは自由に生きましょう。
『ひろさちやのいきいき人生2 禅にまなぶ』春秋社
https://q.bmd.jp/91/119/3799/__no__
「愚」の生き方とは、どんな状況になっても、阿呆のようになって、明るく、楽しく、のんびり、ゆったり生きることだという。
いかなることも「苦」としないこと。
楽しんでしまうこと。
そして、問題を解決しようとしないこと。
「徳を隠匿(かく)し、愚を養う」
という言葉があるように、人に立派なところや賢いところだけを見せようとするのではなく、自分の愚かなところをさらけだす。
かっこ悪いところや愚かなところを隠さない。
馬鹿になりきれ、ということ。
「狂」の生き方とは、閑吟集(かんぎんしゅう)の中の歌、「何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂へ」のような生き方。
いったい、何をしようとしているんだ。
まじめくさって生きてみても、人間の一生なんて夢みたいなもの、ただ狂え、と。
狂とは、今まで通用していた常識や、思い込み、慣習などを一気に飛び越え、そこを突破するための一種の狂気。
常軌(じょうき)を逸(いっ)した行動をとらなければ、厚い壁や硬い岩盤を、突き抜けることはできない。
まさに、一休禅師の生き方だ。
「遊」の生き方とは、我々は、この世に遊びにきたのだ、と思うこと。
舞台でいうなら、誰もが色々な役を与えられ、それぞれの役を演じる。
ときには、通行人だったり、商人だったり、殿様だったり、家来だったりする。
その役は、ご縁によって決まる。
その役になりきって、面白がって遊ぶこと。
良寛和尚の生き方だ。
「人生は冥途(めいど)までの暇つぶし」とは、今東光大僧正の言葉だ。
続けて、「極上の暇つぶしをしなくてはあかん。人生は誰と出会えるか、その積み重ねでしかないんだよ」と、語ったという(島地勝彦)。
平安時代の『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)の中にも、こんな言葉がある。
「遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわぶ)れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」
人は、遊ぶために生まれてきた。
戯れるために生まれてきた。
遊んでいる子供の声を聞いていると、自分の体も自然に動き出してしまう。
人生においては時に、遊んだり戯れたり、ふざけたりすることがいかに大事なことか。
感動や感激がなくなった時は、子どもの頃の豊かで柔軟な感性がなくなってしまった時。
四六時中、まじめくさっていたら、息がつまってしまう。
「愚」と「狂」と「遊」という言葉を胸に刻みたい。
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ひろさちや氏の心に響く言葉より…
禅が教えるのは、世間の物差しの捨て方です。
わたしたちは世間の中で生きていますが、そうは世間の言いなりにならないぞ。
どうせ世間はころころ変わるから・・・。
そのためには、3つのパターンがあります。
「愚」と「狂」と「遊」です。
「愚」は、まず、こちらが阿呆になること。
「私は阿呆です」と言うことは、謙遜のように聞こえるかもしれませんが、そうではないのです。
「わたしは世間の物差しには騙されないぞ、わたしは自分の物差しでもって、自由に生きるぞ」といった生き方です。
「狂」も同じです。
「私は狂っています」と言うことは、じつは世間のほうが狂っているのです。
そんな狂った世間の物差しを馬鹿にして、独自の物差しで生きましょう。
それが「狂」です。
そして「遊」。
わたしたちは観音菩薩であり、極楽世界からこの世界にしばらく遊びに来ました。
日本に滞在しているのだから、日本語を使いますが、しかし「世間人」になりきったわけではありません。
あくまでも仏の物差しに従って生きます。
そして、わたしたちは自由に生きましょう。
『ひろさちやのいきいき人生2 禅にまなぶ』春秋社
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「愚」の生き方とは、どんな状況になっても、阿呆のようになって、明るく、楽しく、のんびり、ゆったり生きることだという。
いかなることも「苦」としないこと。
楽しんでしまうこと。
そして、問題を解決しようとしないこと。
「徳を隠匿(かく)し、愚を養う」
という言葉があるように、人に立派なところや賢いところだけを見せようとするのではなく、自分の愚かなところをさらけだす。
かっこ悪いところや愚かなところを隠さない。
馬鹿になりきれ、ということ。
「狂」の生き方とは、閑吟集(かんぎんしゅう)の中の歌、「何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂へ」のような生き方。
いったい、何をしようとしているんだ。
まじめくさって生きてみても、人間の一生なんて夢みたいなもの、ただ狂え、と。
狂とは、今まで通用していた常識や、思い込み、慣習などを一気に飛び越え、そこを突破するための一種の狂気。
常軌(じょうき)を逸(いっ)した行動をとらなければ、厚い壁や硬い岩盤を、突き抜けることはできない。
まさに、一休禅師の生き方だ。
「遊」の生き方とは、我々は、この世に遊びにきたのだ、と思うこと。
舞台でいうなら、誰もが色々な役を与えられ、それぞれの役を演じる。
ときには、通行人だったり、商人だったり、殿様だったり、家来だったりする。
その役は、ご縁によって決まる。
その役になりきって、面白がって遊ぶこと。
良寛和尚の生き方だ。
「人生は冥途(めいど)までの暇つぶし」とは、今東光大僧正の言葉だ。
続けて、「極上の暇つぶしをしなくてはあかん。人生は誰と出会えるか、その積み重ねでしかないんだよ」と、語ったという(島地勝彦)。
平安時代の『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)の中にも、こんな言葉がある。
「遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわぶ)れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」
人は、遊ぶために生まれてきた。
戯れるために生まれてきた。
遊んでいる子供の声を聞いていると、自分の体も自然に動き出してしまう。
人生においては時に、遊んだり戯れたり、ふざけたりすることがいかに大事なことか。
感動や感激がなくなった時は、子どもの頃の豊かで柔軟な感性がなくなってしまった時。
四六時中、まじめくさっていたら、息がつまってしまう。
「愚」と「狂」と「遊」という言葉を胸に刻みたい。
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