人の心に灯をともす 5987 遊ぶように楽しむこと
【遊ぶように楽しむこと】5987
臨済宗円覚寺派管長、横田南嶺氏の心に響く言葉より…
七日の午後は、曹洞宗の藤田一照(いっしょう)さんにお越しいただいて、三時間にわたって坐禅のご指導をいただきました。
もっとも印象に残った言葉が、「hard work から joyful play へ」でした。
我々の修行は、「厳しい修行に堪えることだ」と長い間教わってきました。
厳しい修行に歯を食いしばって堪えてこそ、何かが得られるのだと教わりました。
しかしながら、元来仏陀の坐禅は、楽しくそして、遊ぶが如くという教えには、目を開かされる思いでした。
私自身、この頃少しずつ坐ることの楽しみが分かりかけてきたところであります。
ひょっとしたら、この修行が楽しいものではないか、坐禅はやはり安楽の法門ではないのかと、ようやく気付き始めてきました。
仏陀が、長い間、瞑想の修行をしたり、苦行をしたりというのは、「hard work」であっ て、厳しいことに堪えて、何か特別の能力や成果を得ようというものでした。
しかし、それらをすべて放下して、樹下(じゅか)に坐ったのは、「joyful play」だという一照さんのお話でした。
お釈迦様のもとに、あれだけ多くの人たちが集まったのは、お釈迦様自身が、真に楽しんで幸せに満ちていたからだという説明をなされていました。
一照さんご自身、ティク・ナット・ハン師について修行されていて、「Issho, smile! Practice should be enjoyable」 (一照さん、ほほえみなさい。修行は元来楽しいものです) と言われて気がついたと話されていました。
私など、四十年以上坐禅してきて、ようやく気がついてきたところです。
しかし、今二年ないし三年くらいしか修行しない人たちでも、 単に「hard work」に堪(こた)えるだけではなく、少しでも坐禅の奥深さ、楽しさに気付いてもらい、「joyful play」に触れて欲しいと願います。
楽しいことは、言われなくても進んでやってゆくものです。
僧堂を出てから、坐禅しないというのではなく、坐禅が楽しくて仕方がないと、そのようになって欲しいと願って、お忙しい藤田一照さんにお越しいただいたのです。
『無駄骨を折る』草思社
https://q.bmd.jp/91/119/6143/__no__
「joyful play」とは、禅の「遊戯三昧(ゆげざんまい)」と同じだ。
遊行者(ゆぎょうしゃ)のような生き方でもある。
この世の旅路を、遊行者のように、淡々と楽しみながら生きていこうと心がけること。
それは、人生を一つのゲームのように考えて、「明るく、楽しく、面白がって」暮らすことでもある。
遊びには目的がない。
成功も失敗もなく、ただただ楽しいから遊ぶのだ。
山田無文老師は真の「遊戯三昧」の境地をこう教えている。
「働くことがそのまま遊びなんです。
人のためにすることがそのまま遊びなんです。
苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」
我々は、この世に遊びにきたのだ、と思うこと。
それを、舞台でいうなら、誰もが色々な役を与えられ、それぞれの役を演じる。
ときには、通行人だったり、商人だったり、殿様だったり、家来だったりする。
その役は、ご縁によって決まる。
どんな役を与えられても、その役になりきって、面白がって遊ぶこと。
「遊ぶように楽しむこと」という言葉を胸に刻みたい。
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臨済宗円覚寺派管長、横田南嶺氏の心に響く言葉より…
七日の午後は、曹洞宗の藤田一照(いっしょう)さんにお越しいただいて、三時間にわたって坐禅のご指導をいただきました。
もっとも印象に残った言葉が、「hard work から joyful play へ」でした。
我々の修行は、「厳しい修行に堪えることだ」と長い間教わってきました。
厳しい修行に歯を食いしばって堪えてこそ、何かが得られるのだと教わりました。
しかしながら、元来仏陀の坐禅は、楽しくそして、遊ぶが如くという教えには、目を開かされる思いでした。
私自身、この頃少しずつ坐ることの楽しみが分かりかけてきたところであります。
ひょっとしたら、この修行が楽しいものではないか、坐禅はやはり安楽の法門ではないのかと、ようやく気付き始めてきました。
仏陀が、長い間、瞑想の修行をしたり、苦行をしたりというのは、「hard work」であっ て、厳しいことに堪えて、何か特別の能力や成果を得ようというものでした。
しかし、それらをすべて放下して、樹下(じゅか)に坐ったのは、「joyful play」だという一照さんのお話でした。
お釈迦様のもとに、あれだけ多くの人たちが集まったのは、お釈迦様自身が、真に楽しんで幸せに満ちていたからだという説明をなされていました。
一照さんご自身、ティク・ナット・ハン師について修行されていて、「Issho, smile! Practice should be enjoyable」 (一照さん、ほほえみなさい。修行は元来楽しいものです) と言われて気がついたと話されていました。
私など、四十年以上坐禅してきて、ようやく気がついてきたところです。
しかし、今二年ないし三年くらいしか修行しない人たちでも、 単に「hard work」に堪(こた)えるだけではなく、少しでも坐禅の奥深さ、楽しさに気付いてもらい、「joyful play」に触れて欲しいと願います。
楽しいことは、言われなくても進んでやってゆくものです。
僧堂を出てから、坐禅しないというのではなく、坐禅が楽しくて仕方がないと、そのようになって欲しいと願って、お忙しい藤田一照さんにお越しいただいたのです。
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「joyful play」とは、禅の「遊戯三昧(ゆげざんまい)」と同じだ。
遊行者(ゆぎょうしゃ)のような生き方でもある。
この世の旅路を、遊行者のように、淡々と楽しみながら生きていこうと心がけること。
それは、人生を一つのゲームのように考えて、「明るく、楽しく、面白がって」暮らすことでもある。
遊びには目的がない。
成功も失敗もなく、ただただ楽しいから遊ぶのだ。
山田無文老師は真の「遊戯三昧」の境地をこう教えている。
「働くことがそのまま遊びなんです。
人のためにすることがそのまま遊びなんです。
苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」
我々は、この世に遊びにきたのだ、と思うこと。
それを、舞台でいうなら、誰もが色々な役を与えられ、それぞれの役を演じる。
ときには、通行人だったり、商人だったり、殿様だったり、家来だったりする。
その役は、ご縁によって決まる。
どんな役を与えられても、その役になりきって、面白がって遊ぶこと。
「遊ぶように楽しむこと」という言葉を胸に刻みたい。
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