人の心に灯をともす 5564 教えとは実践を伴ってこそ生きる

【教えとは実践を伴ってこそ生きる】5564



伊與田覺氏の心に響く言葉より…


《教えとは実践を伴って生きてくるもの》


世界の三大聖人に共通しているのは、自分の著書がないということです。

キリストも、あのバイブルはキリストの著書ではありません。

その熱心な弟子がキリストの教えを受けて、自らもそれを体験して、これは間違いのない真理であると悟ったものがバイブルの言葉となっています。


お経もそうです。

お釈迦さんは著書を持っておりません。

弟子やずっと後の人たちがお釈迦さんの口伝えの教えを実践して、この教えは間違いないなというものを書きとめたのが「お経」というものなんです。


孔子もそうです。

孔子は自らの著書はありません。

『論語』というのは孔子の著書ではありません。

孔子が亡くなり、その孫弟子の時代にできあがったものです。

自分が教えを受けている先生が孔子から学んだこと、もっとも感動したことを聞き出して、その中からさらに適当と思うものを選んで約五百章にまとめたのです。

だから、『論語』は直弟子がつくったものではありません。

孫弟子たちが編纂したものです。


そういうステップがある。

直弟子が学び、それを実践した。

そしてその次の者たちが、自分たちの先生が真実だというもの、先生の教えの中で自分たちが実践して絶対に間違いのないものを選んでまとめたのです。

『論語』とはそのようにしてつくられたものです。


だから、非常に短い文章の羅列になっているのです。

それが二千五百年後の現代まで生きている理由は、実践の裏付けがあるということなんですね。

これはバイブルもお経も同じでしょう。


学者というものは、多くの書物を読み、そこから拾い出したものを帰納するといいますか、結論を見出して人に話をしているのです。

そのため、自ら実践というものをしていない人が多い。


戦後、日本にニヒリズムの風潮が非常に幅をきかせたときがあります。

そのニヒリズムについての本を日本語に翻訳した偉い先生がおりました。

あるとき私が「あなた、ニヒリストですか」とたずねたら、その先生は「いやいや、わしは関係ない。向こうにある思想を訳したまでだ」といわれました。

このように、学者というのは、自分の訳したものと、自分の人生観とが違っている場合があるのです。


文化人という人の中にはそういう人が多いようです。

人よりも語学が達者であるというので、人に先んじて外国の書物を読み、それを紹介をする。

その功績はありますけれど、それはその人の心の叫びではない。

学者というものは非常に大事ではありますけれども、そこが違うところです。



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どんな素晴らしい言葉も、実践の裏打ちがなければ相手には伝わらない。

実践している人の言葉は、それがたとえ、小学生が使うようなやさしい言葉であったとしても重みがある。


お釈迦さまは「人を見るなら、その行動を見よ」と言った。

外見や肩書、あるいは社会的地位や学歴で人の値打ちをはかることはできない。

どんなに口ではカッコいいことを言っても、それに行動が伴っていなければ、人からは信用されない。


3大聖人の残した「聖書」「論語」「仏典」は、すべて自らが書いたものではなく、弟子たちがその教えを実践した結果が書いてあるという。

実践を伴った教えには、何千年の時を超える真の価値がある。


「教えとは実践を伴ってこそ生きる」という言葉を胸に刻みたい。






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