人の心に灯をともす 5887 未来や過去ではなく、今を生きる
【未来や過去ではなく、今を生きる】5887
ひろさちや氏の心に響く言葉より…
古い映画ファンであれば知っておられる名台詞があります。
「昨夜、どこにいたの?」
「そんな昔のこと、覚えていない」
「今夜、会ってくれる?」
「そんな先のこと、分からない」
映画『カサブランカ』の中での、男女の会話です。
わたしは、この台詞から、次に引用する釈迦の言葉を思い出します。
いや、じつは、本当は逆なんです。
釈迦の言葉を引用するとき、いつもこの『カサブランカ』の名台詞 を思い出すのです。
過去を追うな。
未来を願うな。
過去はすでに捨てられた。
未来はまだやって来ない。
だから現在のことがらを、
現在においてよく観察し、
揺ぐことなく動ずることなく、
よく見きわめて実践すべし。
ただ今日なすべきことを熱心になせ。
誰か明日の死のあることを知らん。(マッジマ・ニカーヤ)
仏教において釈迦は、未来に対しての権利放棄と同時に、過去に対しての権利放棄をも表明しているのです。
だから、「過去を追うな。未来を願うな」なんです。
ということは、「反省をするな!希望を持つな!」になります。
わたしたち日本人が言う希望は、その本質は「欲望」です。
出世をしたい、金持ちになりたい、一流大学に入りたい、甲子園に出場したい、オリンピックで金メダルを取りたい等々、いずれも欲望・願望です。
そして、その欲望はエゴイズムです。
わたしが出世するためには誰かが失脚してくれないといけないし、金持ちになるために貧乏人が必要です。
ある高校が甲子園に出場すれば、他の高校は出場できません。
そんな利己的な欲望を、釈迦は推奨するでしょうか。
だから、釈迦は、「希望を持つな!」と教えるのです。
過去についても同じです。わたしたちは過去の失敗をいくら反省しても、その反省だけで現在が変わるわけがありません。
大学受験に失敗して、《しまった!もう少し勉強しておけばよかった》と悔やんでも、失敗を取り消すことはできません。
ならば、反省するだけ無駄です。
ぐじぐじ後悔しないで、来年の受験に向けていま一 生懸命に勉強すればいいのです。
(でもなあ、それでも過去に自分が犯した過ちは気になるなあ・・・。やはり反省すべきじゃないのか?) と思われる方も大勢いるでしょう。
しかし、そう思われる方は、反省と懺悔を混同しているのです。
懺悔は、過去の罪を神に告白し、赦(ゆる)しを乞うことです。
仏教の場合は、"懺悔"を"さんげ”と発音しますが、やはり仏に罪の赦しを乞うことです。
これは宗教的行為です。
だから、罪を犯したのであれば懺悔をする必要はありますが、大学受験に失敗したのは、なにも仏に対して罪を犯したわけではないのですから、懺悔する必要はありません。
ましてや反省する必要はありません。
それで釈迦は、「反省するな!」と教えるのです。
わたしたちは、「現在」に生きるのです。
「過去」や「未来」に生きるのではありません。
だが、その「現在」は、過去のさまざまな因縁の総和・集積の結果です。
某年某月某日、散歩をしていたあなたが道を左に曲がった。
そのほんのちょっとした偶然が運命のいたずらによって、現在のあなたをつくっています。
あのとき、あなたが道を右に曲がっていたら、あなたは大金持ちになっていたかもしれません。
それとも、あなたが殺人犯になって、死刑になっていたかもしれない。
それは、人間には分からないことです。
その分からないことを、くよくよ考えてはいけません。
『阿保の知恵』角川oneテーマ21
https://q.bmd.jp/91/119/4399/__no__
我々は、「希望」や「夢」を持つな、と言われるととまどってしまう。
子供の頃から学校や家庭で、「希望」や「夢」を持て、と教え込まれてきたからだ。
「希望」や「夢」は明日や未来のこと。
しかし、仏教においては、未来ではなく、「今、ここ」しかない、と言われる。
それは、明日になっても、明後日になっても、気がつけば、我々には「今」しかないからだ。
もちろん、過去も同じだ。
だからこそ、我々は「今、ここ」をしっかり生きるしかない。
しっかり生きるとは、人生を楽しむことだ。
それは、言い換えると、「人生を遊ぶように生きる」ということ。
「楽しむ」には、「苦しむ」という対義語があるが、「遊ぶ」には対義語がない、仏教的な絶対の境地。
たとえば、「遊行(ゆぎょう)」とは、僧侶があちらこちらをめぐり歩くことであり、行脚(あんぎゃ)とも言われる。
また、山田無文老師は「遊戯三昧(ゆげざんまい)」について、こう語る。
「働くことがそのまま遊びなんです。
人のためにすることがそのまま遊びなんです。
苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」(禅、「あたま」の整理/知的生き方文庫)より
つまり、この世の道中を、道草したり、寄り道したり、遠回りしたり、迷ったりして、それを面白がって、楽しみながら、遊ぶように生きるということ。
「未来や過去ではなく、今を生きる」という言葉を胸に刻みたい。
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ひろさちや氏の心に響く言葉より…
古い映画ファンであれば知っておられる名台詞があります。
「昨夜、どこにいたの?」
「そんな昔のこと、覚えていない」
「今夜、会ってくれる?」
「そんな先のこと、分からない」
映画『カサブランカ』の中での、男女の会話です。
わたしは、この台詞から、次に引用する釈迦の言葉を思い出します。
いや、じつは、本当は逆なんです。
釈迦の言葉を引用するとき、いつもこの『カサブランカ』の名台詞 を思い出すのです。
過去を追うな。
未来を願うな。
過去はすでに捨てられた。
未来はまだやって来ない。
だから現在のことがらを、
現在においてよく観察し、
揺ぐことなく動ずることなく、
よく見きわめて実践すべし。
ただ今日なすべきことを熱心になせ。
誰か明日の死のあることを知らん。(マッジマ・ニカーヤ)
仏教において釈迦は、未来に対しての権利放棄と同時に、過去に対しての権利放棄をも表明しているのです。
だから、「過去を追うな。未来を願うな」なんです。
ということは、「反省をするな!希望を持つな!」になります。
わたしたち日本人が言う希望は、その本質は「欲望」です。
出世をしたい、金持ちになりたい、一流大学に入りたい、甲子園に出場したい、オリンピックで金メダルを取りたい等々、いずれも欲望・願望です。
そして、その欲望はエゴイズムです。
わたしが出世するためには誰かが失脚してくれないといけないし、金持ちになるために貧乏人が必要です。
ある高校が甲子園に出場すれば、他の高校は出場できません。
そんな利己的な欲望を、釈迦は推奨するでしょうか。
だから、釈迦は、「希望を持つな!」と教えるのです。
過去についても同じです。わたしたちは過去の失敗をいくら反省しても、その反省だけで現在が変わるわけがありません。
大学受験に失敗して、《しまった!もう少し勉強しておけばよかった》と悔やんでも、失敗を取り消すことはできません。
ならば、反省するだけ無駄です。
ぐじぐじ後悔しないで、来年の受験に向けていま一 生懸命に勉強すればいいのです。
(でもなあ、それでも過去に自分が犯した過ちは気になるなあ・・・。やはり反省すべきじゃないのか?) と思われる方も大勢いるでしょう。
しかし、そう思われる方は、反省と懺悔を混同しているのです。
懺悔は、過去の罪を神に告白し、赦(ゆる)しを乞うことです。
仏教の場合は、"懺悔"を"さんげ”と発音しますが、やはり仏に罪の赦しを乞うことです。
これは宗教的行為です。
だから、罪を犯したのであれば懺悔をする必要はありますが、大学受験に失敗したのは、なにも仏に対して罪を犯したわけではないのですから、懺悔する必要はありません。
ましてや反省する必要はありません。
それで釈迦は、「反省するな!」と教えるのです。
わたしたちは、「現在」に生きるのです。
「過去」や「未来」に生きるのではありません。
だが、その「現在」は、過去のさまざまな因縁の総和・集積の結果です。
某年某月某日、散歩をしていたあなたが道を左に曲がった。
そのほんのちょっとした偶然が運命のいたずらによって、現在のあなたをつくっています。
あのとき、あなたが道を右に曲がっていたら、あなたは大金持ちになっていたかもしれません。
それとも、あなたが殺人犯になって、死刑になっていたかもしれない。
それは、人間には分からないことです。
その分からないことを、くよくよ考えてはいけません。
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我々は、「希望」や「夢」を持つな、と言われるととまどってしまう。
子供の頃から学校や家庭で、「希望」や「夢」を持て、と教え込まれてきたからだ。
「希望」や「夢」は明日や未来のこと。
しかし、仏教においては、未来ではなく、「今、ここ」しかない、と言われる。
それは、明日になっても、明後日になっても、気がつけば、我々には「今」しかないからだ。
もちろん、過去も同じだ。
だからこそ、我々は「今、ここ」をしっかり生きるしかない。
しっかり生きるとは、人生を楽しむことだ。
それは、言い換えると、「人生を遊ぶように生きる」ということ。
「楽しむ」には、「苦しむ」という対義語があるが、「遊ぶ」には対義語がない、仏教的な絶対の境地。
たとえば、「遊行(ゆぎょう)」とは、僧侶があちらこちらをめぐり歩くことであり、行脚(あんぎゃ)とも言われる。
また、山田無文老師は「遊戯三昧(ゆげざんまい)」について、こう語る。
「働くことがそのまま遊びなんです。
人のためにすることがそのまま遊びなんです。
苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」(禅、「あたま」の整理/知的生き方文庫)より
つまり、この世の道中を、道草したり、寄り道したり、遠回りしたり、迷ったりして、それを面白がって、楽しみながら、遊ぶように生きるということ。
「未来や過去ではなく、今を生きる」という言葉を胸に刻みたい。
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