人の心に灯をともす 5870 議論はしない

【議論はしない】5870



北川八郎氏の心に響く言葉より…


《釈尊はいう。欲にひかれ、好みにとらわれている人が、どうして自分の偏見を超えられるであろう。

彼は(いつも)自ら自分が完全であるとみなして、知るにまかせて語るであろう。

人から尋ねられたのではないのに、自分で自分のことをいいふらすのであるから、「下劣な人」である。》



時に、TVに目を奪われることがある。

TVにスイッチが入り、画面が展開されると、内容はとるに足らない物でもただ目が吸いとられて、ハッと気づき、TVから遠ざかる。

TV討論会等で、大学の教授たちが出て持論をくり返し、相手をあげつらっている番組を見た時、釈尊の、このことばが浮かぶ。


釈尊は「議論をふきかけられても、応じるなかれ、相手に論で勝っても、感情まで納得させるのは難しい」と二千五百年前にいっている。

なぜなら、そのことが正しいか、そうでないか、立証できないことは、ただ、欲と好みに捉われた偏見にすぎないという。

そんな人こそ、自分と自分の論は、完全であるとみなして、ただ、本によって得た知識にまかせて喋っているにすぎないからであるという。


人から尋ねられて自分のことをいうのではないから、それは自分の頭の良さ、知識の広さの自慢、つまりいいふらすのであるから、その論も、その人も、下劣な人というのであろう。

人格に地位や名誉や財の有無は関連しない。

その人の泡を飛ばす口元を見れば解るものを・・・。

静かに瞑想の時を過ごす方がいい。


『ブッダのことば「百言百話」』致知出版社
https://q.bmd.jp/91/119/4135/__no__




ひろさちや氏の「捨てちゃえ、捨てちゃえ/PHP研究所」の中にこんな話がある。


『あるとき、釈迦はひとりのバラモンからさんざんに罵詈雑言をあびせかけられた。

わたしたちは、釈迦は偉い人であって、他人から非難されるようなことはなかった、と思っている。

しかし、それは誤解である。

釈迦のような人でも、ときには非難攻撃を受けるのだ。

だから、わたしたちが他人から非難攻撃されたとき、その故をもって悲観してはいけない。

どんな人だって、他人から悪口を言われ、攻撃されるのだということを、しっかり銘記しておきたい。

問題は、その非難攻撃に対する、こちらの応じ方である。


釈迦は、罵詈雑言をあびせるバラモンに向って、こう言った。

「バラモンよ、きみのところに客がやって来て、きみがその客に食べ物を出す。しかし、その客がその食べ物を受けなければ、その食べ物は誰のものになるか…」

「そりゃあ、もちろん、客人が食事を受けなければ、その食事は主人のものになる」

「では、バラモンよ、わたしはきみの罵詈雑言を受けない。だから、その悪口はきみのものだ」』


あの釈迦でも、人から攻撃を受けた。

だれも、人から非難されたり、攻撃されたら落ち込んでしまう。

しかし、問題は、その対処の仕方だという。


議論はしないこと。

釈迦の「わたしはきみの罵詈雑言を受けない。だから、その悪口はきみのものだ」と言う言葉を胸に刻みたい。




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